ただ溜息を重ねることしかできないのだ



 月日が経つのは短いもので、あっという間に西暦二千年を迎え十年近く経とうとしている。つい先日まで予言がどうとかで滅亡云々と騒いでいた大衆は非常に飽きっぽく、ただ名前を変えて似たようなことを同じように騒いでいた(今は、どこかの国の人工衛星が落ちるとか)。
 彼はかすかなため息を冬の空に馴染ませた。駅の改札前で、スーツのポケットに手を入れてぼんやりと佇んでいる。傍目に見ると人を待っているように見え、彼のため息は待ち人来ずの失望のようにも思われた。しかしそれはとんでもない当てずっぽうのくだらない予想にしか過ぎない(本当に下手な鉄砲はいくら打っても当たらない)。
 彼は随分長いこと同じ仕事を続けていたが、どうにも今の仕事が気に入らないらしい。給与も待遇もさほど悪くはないし、その仕事は誰にでも出来るものではないということで、必要とされているという優越感や満足感を得られるという一見悪くない仕事のように思われる。しかし、その仕事内容が内容であるだけに彼は憂鬱であるようだった。
 人の流れは絶えず様々なベクトルへ向かい、誰もが忙しなく生き急いでいるかのように思われた。人々の流れを眺めることに、さすがに飽きてしまった彼は、大きなあくびをして空を見上げた。生憎と重苦しい曇天だった。そのうち雨が降るかもしれないが、この寒さなら雪になる可能性もあった。
 雨あるいは雪が降りそうだと気付いても、彼はなんのアクションも起こさなかった。雲は出来うる限り低い位置を陣取って、地上でかさかさと歩く人々を笑うようにゆっくりと流れていった。










 カウンターの隅で猪口を傾けている男がいた。サイドにかかる髪を頬骨の上で切りそろえ、清潔感のあるさっぱりとした短い黒髪をしていた。ワイシャツの第一ボタンは開け、ネクタイも緩め、少々砕けた格好をしている。頬がほんのりと赤く染まり、けっこうな時間をここで過ごしている様子だった。
 店内の照明は薄暗く、物静かだった。彼のほかにも幾人か客がいる。彼らは皆スーツ姿だった。
 カラン、とベルを鳴らし一人の男が入ってきた。肩につくほどのいささか長い栗色の髪を持った細面の男だった。

「おお、三成。遅かったな」
「悪い。仕事が長引いた」
「大変だな」

 三成は、黒髪の男を見つけるなり一直線にそちらへ向かった。隣に腰掛けた三成は店員に焼酎を頼み、大きなため息をついてネクタイを緩めた。背もたれに体重をかけると、ギ、という古めかしい音が立った。
 黒髪の男は猪口を一気に傾け、やや熱い息を吐いた。

「今日も一日ご苦労さん」
「ああ。兼続もご苦労」
「その様子だと、また手こずったか」

 兼続はいたずらっぽい笑みを浮かべ三成の顔を覗き込んだ。途端に渋面を作った三成は思い出したくないと言うようにそっけなく頷いた。
 三成は働くこと自体は嫌いではない。むしろ、(非常に珍しいが)好きだった。だがそれも内容によるもので、現在の仕事は気に入っていないようだった。そのことを兼続は知っていて、あえて話題にする。というよりも、彼らにはそのことくらいしか特別な話題がないために、どれほど仕事を嫌っても顔を合わせれば仕事のことくらいしか話すことがない。そして愚痴というものは常に豊満で際限がなく、ついつい口を滑って止まらなくなってしまうものだ。
 透明のコップが三成の前に差し出された。それを取り、少し傾けた三成は一気に酔いが回ったかのように次々と喋りだした。

「そもそもだな、なぜ人は死を認めないのか? 死というものは人間に与えられた唯一の平等と言ってもよいものだろう。その死を拒絶するなんて、ばかげている。そして同じ口で言うんだろう。男女共同参画社会だとか、男尊女卑だとか、自由平等だとか。ああばかばかしい」
「まあそう腹を立てるな。人とはそうあるべきなのだろう。お前だって矛盾を抱えることがあるだろう」
「矛盾はあるかもしれないが、俺は俺の理念によって物事を考える。それは一本の鉄にようなものだ。それはいかなる矛盾を生もうが『俺』という存在がある。だがあいつらにはない。ただその時の思いつきや、理不尽で言いたいことだけ言って、いざ実現するともっとたくさんを望む。あいつらの理念はきしめん以下だ」
「きしめんねえ」

 またコップを傾けた三成は、大きなため息をついてテーブルに突っ伏した。いくらなんでも酔い潰れるにはまだ早いはず、と、兼続は訝しげに三成の様子を窺った。
 なにも顔を合わせるたびに壮絶な愚痴大会を行って酔い潰れるわけではない。ただ、たまに三成が溜まったストレスを発散すべく急ピッチで酒を飲み、言いたいだけ言って潰れてしまうのだ。
 常ならば本番はこれからで、こんなものは入り口の地面に生えている雑草みたいなものだった。

「三成?」
「なんだ」
「起きていたか。もう潰れたのかと思ったぞ」

 テーブルに額をつけたまま、三成は動こうとしない。偶然、カウンターには他に客もいなかったので人目を気にせずにいられたが、出来ることならば早めに起き上がって欲しいと兼続は思っているようだった(落ち着きなくさわさわと動く両手が語っている)。
 しばらく二人は黙っていた。その間に二人とも膨大な量の思案をめぐらせていたがそれを口にすることはなかった。
 ようやく起き上がった三成は、仏頂面でふてぶてしく喋り始めた。

「いくらなんでも早すぎる。ただ、少し疲れただけだ。どうして俺はこうして見えない匿名の一部の人間に向けてこうもイライラしなくてはならんのかわからなくなった」
「お前の理念は鉄だったのでは?」
「これは理念に含まれない。自分に呆れているだけだ」

 兼続の皮肉に対し、三成は非常に悩ましい表情をして自らの眉間を押さえた。実のところ三成は、表現しようのない自責の念に近いものを非常に鬱陶しく思っていた。だがそれも酒と共に喉の奥へ流し込んでしまうことが多かった。

「三成のような外回りの人間ですらこうなのだから、クレーム処理課は多大なストレスだろうな。あちらはお前の比ではないんだろう?」
「ああ、らしいな。俺も話に聞いたことしかないが、怒り心頭に発するクレームやただひたすらに哀願し続けるクレームが延々と続くらしい。俺なんかは、ただ聞き流していればいいだけだからある意味楽かもしれないが、どうも俺の性格上それはできないようだ」
「すぐ口答えするんだろう」
「口答えではない。俺は仕事をこなしてマニュアル通りの正論を述べているだけだ。だがああいうものは理論ではなく感情だからな。本当に困る。……しかし、誰が言っても同じはずなのに、俺が言うと非常に相手が食って掛かるのはなぜだろうか」
「そりゃ、お前の物言いが気に入らんのだろう」
「そうなのか。ならやはり俺は不適任だな。異動願いが受理されぬ理由がわからん」

 顔を顰めて、荒々しい語尾で吐き捨てた三成を兼続はただ笑った。いつまでも仕事に慣れない三成に対する微笑ましいものと、その異動願いがどこでどう扱われているか知っているがゆえの乾いた笑みだった。
 三成は兼続の笑いが己をばかにしているものと思い、不機嫌に拍車をかけたものだったがいつまでも子供のように自分の感情をむき出しにしていることに躊躇いを感じたので、それを呑み込むことにした。その様子が手に取るようにわかった兼続は三成に気付かれないよう、こっそりと笑みを深めた。

「お前のほうはどうなのだ? 相変わらずか?」
「ああ、犬の手を人の手にしたいと思うし、猫の手でもいいから借りたいと思う。常に盆と正月がいっぺんに来ているようなものだ」
「出た、決まり文句」
「決まり文句?」

 首を振り、大きなため息を吐きながら喋っていた兼続は、三成の楽しげな言葉に首をかしげた。兼続は自分に決まり文句があるとしたらそれは、『義のために、愛のために』だと思っていた。だが今、義も愛も口にしていない。ただ忙しいと三回言ったようなものだった。
 なんのことだかわかっていない様子の兼続に三成は半ば呆れた。今までに何度繰り返したかわからない問答だったが、ほぼ無意識に彼は言っていたのだろうか。三成は習慣とはそういうものなのだろうと考えた。

「兼続、気付いていなかったか? お前に仕事の話を振ると、必ずその三つの喩えを言うのだよ。だから決まり文句なのだ」
「……なんだか、少し格好がつかないな、それは」
「そうか?」

 決まり文句というものは格好がつくものと認識する人間とそうでない人間の温度差が顕著に感じられた。
 兼続は猪口を手にし、中身がなくなっていたことに気付く。目敏くそれに気付いた三成は、兼続が手を伸ばしかけた徳利を先に手に取り、猪口に注いでやった。

「む、すまない」
「気にするな。それで、兼続は忙しい以外にないのか? まあ、情報管理課だから、あまり詳しいことは言えないだろうということは承知している」
「ああ、相変わらずだよ。クレーム処理課からその人の情報をもらって書き込んだり、お前たちの仕事ぶりを記録したり、識別課へ必要な情報を送って、先月の統計を出したり、一年ごと、五年ごと、十年ごとを国ごと、大陸ごと、北半球ごと、南半球ごと、全世界って平均を出したり。これがいつまで経っても終わらん。前任のものが怠けていたせいらしいが」

 さっそく猪口を傾けた兼続は、先ほどの三成のようにあれこれと喋り始める。これもまた橋を渡る前の看板のようなものだったが、その言葉の節々には非常に熱がこもっていた。

「それで、お前の担当は西日本で、これもまた前任の者が非常に怠け者だったからいつまで経ってもなにも終わらない、と」
「そうだ。あの者たちはまるで、時間が永遠にあるとでも思っている節がある。時間はいつだって限りあるもので、その中でどれほど仕事を成せるかが問題であるのにだ。それに元来、他の国のデータはその国に支部があってそこで自分たちでやってくれるはずなのに集まるデータが不備だらけで全部私が一から調べなおして打ち直している。ああ、もう、見直しくらいしてくれればいいのに」
「そうか。今は日本が全てのデータを担当しているのか」
「ああ。その前がアメリカだったらしいが、もうずっと昔の話だ。アメリカでその担当だった者に話を聞いたのだが、データの不備は後々の禍根となるから許されることではない。我々も非常に苦労したが、優秀な部下たちのおかげでどうにかなっていた。と」
「お前のところは優秀な部下はいないのか?」

 三成の問いに、兼続は底なしのため息をついた。

「三成、私が部下なのだよ。上司がどうしようもない」





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