「やっぱり痕になっちゃいますね、これ」
「もうガーゼとかはいらないのか?」
「ええ、大丈夫でしょう」
明らかに他と色の変わった指先を少年はまじまじと眺め、もう片方の指先でそっと触れてみる。
(少し痛いけれど、うん、平気そうだ)
もう字を書くことや、家事などで不便な思いをしなくて良い反面、この部屋へ来る口実がなくなってしまったということに気付き、少年はあまり浮かれた表情はできなかった。
「そうか。治ったのか」
「ちっとも日に焼けてなくて、キレイな指なんですけれどねえ。もったいない。まあそれも男の勲章ってヤツで」
少年から顔をそむけ、煙を吐き出した青年はなるたけ明るい口調で言う。しかしその言葉も残念なことに少年の耳には届いていないようだ。少年はひたすら自分の指先を動かし、不具合がないか確かめている。
(激しく動かすと、少し痛い。でも平気そうだ。包帯なんかで保護する必要もない)
「せっかく包帯が取れるっていうのに、もう少し嬉しそうな顔はできませんかね? やっぱり痕が残るのっていやですかね」
「さあ……どうだろう。なんか、はしゃぐ気分にならない」
「まあ、ぼうやの場合はいつもそんな感じしますけれど」
青年の言うとおり、この少年が手放しで喜ぶという姿は少し想像がしにくいものがある。それは少年も自分で承知しているのか食って掛かることはしない。
(あ、オジサンも、包帯を巻いていない。俺よりかはきれいな痕だな)
「明日も、ここに来ていいか?」
「そんなこと気にしていたんですかあ? 自分で言ったでしょう、『友達』って。友達なら、口実なんて必要ないんじゃないですかねえ」
その言葉に少年はパッと表情を輝かせ、それこそ想像しにくい『手放しで喜ぶ姿』がお目にかかれそうなほどの笑みを浮かべた。少年の笑顔はなかなか珍しい。青年はしっかりとその笑顔を目に収め、同じように微笑む。
青年の言う『友達』が同情と同義語であるのかもしれないが、それでも青年も少年も構わない。
「それだったらオジサン、勉強を教えてくれ!」
「勉強? ぼうや、学校の勉強できないのかい」
意外そうに言う青年に、少年は首を振ってランドセルから一冊の本を取り出した。十センチはあろうかというほどに分厚く、B5サイズのその本はとても学校の教科書とは言いがたい。
それを長机の上に置き、青年にタイトルが見えるように向きを変える。タイトルを見た青年は、表情を凍りつかせる。
「『ゲノムの発祥』……ですか」
「難しい言葉ばっかりでちっともわからない。オジサンは依頼を受けて、生物のほうも扱っているのだろう? だったらわかるんじゃないか?」
「こんなものどうして……、いや、まあいいや。しかし、ゲノムなんて俺の専門外ですよ。俺はあくまでメカニックなんですから」
見るからに専門書であるそれをパラパラとめくり、青年は手をあげた。つまり、お手上げということだ。少年は心底がっかりしたようで、のろのろとランドセルにそれをおさめる。
「え、まさか、本当に興味があって?」
「それ以外になんの理由がある」
(なんてこった。話題作りのきっかけかなんかだと思ったのに。悪いことしたかな? いやでも知らんものは知らんしなあ)
末恐ろしい子。青年は二度目の感想を飲み込んだ。
少年はまたランドセルの中をあさり、またごそごそとなにか分厚い本を取り出した。さすがの青年も二度目となると構えてしまう。今度はどんな専門書が出てくるのか、興味はあるが期待に応えられるとは限らないのだ。
「それは?」
「家の中で見つけたから、暇なときに読んでいる」
ハードカバーらしいそれはブックカバーにつつまれ、タイトルはわからない。けれどとても十歳の子供が読む厚さの本とは思えない。青年は狐につままれたような面持ちで、自分もまた資料を手に取った。この資料も、少年が持ってきた専門書に負けず劣らず専門用語ばかりで素人目にはわけのわからない文字列にしか見えないのだろうが、青年はそれを専門としているのでちっとも首をかしげる理由にはならない。
黙々と文字を追いかけ続けるふたりは、その場に根がついてしまったようにジッとしている。
「そういえば、『しまさこん』ってどういう字を書くんだ?」
「名前ですか? 簡単ですよ。ナントカ島、の島に、左に近い。これで『島左近』です」
「ふうん……。『左』という字を名前に使うなんて、変わった名前だな。『左』という字はあまり良い意味がないと聞いているけれど」
「ま、変わっていて覚えやすいでしょう」
少年は宙に『島左近』という字をふわふわと浮かべ、何度か頷いた。予想した候補の中にある字だったので思い浮かべるのは容易だったようだ。
「ぼうやの名前の……、『三成』っていうのもあまり見ない名前だと思いますけれど」
「三つのものを成すらしい。なんだったかな……。体と心、あとひとつが思いだせん」
「心技体、ですかね?」
「いや、技ではなかった」
思い出せないのがそうとう気持ち悪いのか、少年は本を閉じて本格的に考え込む。あと一歩のところで思い出せないというものはどうにも奥歯にものがつまっているような、むずがゆい気持ちになるものである。少年も例にもれずその状況におちいっている。
青年は思い当たる節があるようで、少し考える時間を置いて喋りはじめる。
「記憶っていうのは、覚えて、保存して、思い出して、最後には忘れるというプロセスをひたすらにくり返すもんですよ。思い出そうとしたときに思い出せなくとも、ふとしたときに思い出すってことも多いですから」
「そうか。そういえばオジサンは記憶に関して、趣味の研究をしているんだったな。ヒチンタラキオク、だっけ?」
「非陳述記憶ですよ。チンタラって」
「ああ、そうそうそれだ。その話が聞きたい」
「別にいいですけど、わかるんですかねえ。端的な話、非陳述記憶っていうのは言葉にすることができない記憶のことですよ。例えば、無意識のうちにぼうやは自分の人差し指の爪を中指の腹でなでている。こういうクセっていうのは、自分では言葉にできないけれど、たしかにそういう記憶がインプットされている、ということでいいかな?」
青年に指摘され、少年は慌てて自分の指先を見る。たしかに青年の言うとおり少年は人差し指の爪を中指の腹でなでている。今度は意識してその行動をくり返す。
「それはつまり、『言葉にできない』というよりも『自分で気付いていない』というだけじゃないのか?」
「そうです。イコールで言葉にできない」
「……言葉遊び?」
「まあ、ここだけ聞くとあながち間違っちゃいませんね。まあ非陳述記憶は参考までに調べてる程度で、本業は脳内にある映像の実写化ですよ。これがまたねえ、人体実験なんてもんはできませんし、ともかく理論だけまとめて俺を使って実験してもらおうって思ってるんですけど。記憶っていうのはあくまでも抽象的な存在ですから、それをリアルにするということは今まで多くの人が試みてきたことだ。だがどれも成功しない。記憶の共有とはメリットとデメリットが大きいから、どうにも二の足を踏みがちになる。誰だって知られたくないことだってあるし、けれど同時に知ってほしいことも……」
自分が興味のある分野からか、青年は次々に喋り少年を混乱させる。今にも少年は目を回してしまいそうだ。
難しい顔をして頭をかかえる少年を発見し、青年は気恥ずかしげに微笑み、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、どうも、話し相手がいないもんですから喋りはじめると歯止めがきかなくって」
「い、いや……、その分野の研究が大好きだということはわかった。しかし、どうしてその研究をはじめたのだ?」
十歳とは思えない悩ましげな表情を一転させ、少年は青年に問いかける。なにごとにもなにかしらのきっかけというものがある。記憶についての細かい知識には興味がなくとも、それが純粋な少年の疑問だった。
対して問われた青年はというと、きょとんと目を丸め、それから額を押さえてうなる。
「……どうやら忘れてしまったようです。記憶して、保存して……、思い出すという行動を怠っていたのでねえ」
「そういうことって、忘れるものなのか?」
「ぼうやにだって経験あるでしょう。忘れるはずがないことを忘れている、っていう」
そういうものか、と少年は納得した。