少年は目を輝かせはしなかったが、やはり興味津々といったようで、青年からあれこれ聞き出そうとする。だが、青年はそれ以上喋ろうとはしない。あいまいにはぐらかし、話をそらしてゆく。さすがに、いい加減、喋りすぎていることに気付いたようだ。
 はぐらかされた少年は不満を顔いっぱいに浮かべ、唇をとがらせる。

「あのですねえ、ちょっと勘違いしてるでしょう。俺とぼうやはお友達じゃないし、俺のしていることはままごとじゃないんだ。そうあれこれ喋るわけにはいかんのですよ」
「さんざんしゃべっておいて、どの口がそれを言うのだ?」

 背もたれに寄りかかり、腕を組む少年の姿は子供ながらになかなか堂に入っている。その上、青年は床に座っているため自然と青年を見下ろす形になるものだから、青年は(これは新手のプレイか)とまで考えるのだった。しかしそこをなんとか持ち直し、青年は反論に転じた。

「それはそうですがね……、まだ、これくらいなら知られても問題ありませんよ。それにこの程度の研究内容なら、研究者の間や一般の方にも有名です。ラボのことなら、ラボへ入るには厳重なチェックがあるのでね。だが、この調子じゃ『ラボの中を見たい』とでも言い出しそうですからねえ、好奇心旺盛なぼうや?」
「別に、もう中には興味ない」

 青年に対する一時の意地なのか、それとも本音なのか。青年はそれを見分けることができずにいたが、少年もまたわからないのだ。
(どうして、興味なくなっちゃったんだろう)
 研究施設に入りたくてやってきたというのに、この部屋へ落とされてしまった。だが少年は存外この野暮ったい部屋が気に入ってしまったのだ。それに青年はうかつで、いろいろなことを少年に喋ってしまう。自然と研究施設そのものに興味がなくなるのも頷ける。
 少年も青年も、別々のベクトルへ働いた思考を落ち着かせるために少しの時間を必要とした。

「友達じゃないのか?」
「はい?」
「……別に」

 静かになったところで、唐突に少年は口を開く。その言葉の意図が読み取れなかったのか青年は首をかしげ、少年に目で訴える。だが少年は顔をそらし、拗ねたようにはぐらかした。

「ああ、さっき言ったことですか? いやあ、友達、ですか?」
「知らない」
「まあ、知人と友人のボーダーラインって難しいですよねえ。『喋ったらもう友達』って人もいますし、『いろいろなことを話すようになったら友達』という人もいますしね」
「友人と思ったら友人だろ」

 青年の言うとおり、友人のラインというものは普段、特別に意識しないぶん、意識しはじめるとタチが悪い。少年の言うように考えると、どこから友人となるのか、それがまた難しい。しかし確実に、友人と知人は違う存在であるのだ。
 灰皿で煙草をもみ消した青年は、手を握ったり開いたりしながら考えるそぶりを見せ、言う。

「だから、その友人と思うラインが難しいんですよ。俺なんかは仕事上、友達なんてできないし、って、大人になって働くようになったら友達なんてなかなかできないもんですよ」

 大人の事情など、子供はあずかり知らぬものだ。

「なら、俺が友達になってやる。それともあれか? 小学生が友達だと体裁が悪いとでも言うのか」
「そんなことはないですけど、『友達になるー』って意気込むもんでもないでしょう」
「しかし意識してしまったのならそれは難しいだろう。いいじゃないか、俺とオジサンは友達だ」
「はあ、どうも」

 少年の勢いに押される形で、青年はうなずいた。
 いつものように用意されているカップに口をつけ、少年は唇をなめる。どうやら満足しているらしい。青年はというと、少し腑に落ちないながらもクスクスと笑い、また資料に目を通しはじめた。

「変わったぼうやだ」
「そうか? 俺にとっても変わったオジサンだ。大人を好きになったのは初めてのことだ。俺にとってオジサンは初めての人だな」
「はは、本当、変なぼうや」

(おいおい、初めての人って、女子高生みたいなことを言う)
 少年の発言に笑みを深くし、青年は床に寝転がった。天井の明かりに資料が透け、文字が読み取りにくくなるがもはや青年は資料なんて読んでいなかった。
 少年はテーブルに身を乗り出し、青年のカップをたぐり寄せるとその中に砂糖とミルクを遠慮なしにいれはじめた。それくらいが青年の好みだということを少年は知っている。

「コーヒー」
「気がきくねえ。いい大人になりますよ」

 起き上がり、カップを受け取った青年はそれに口をつけ、苦味に顔をしかめることもなく至極満足げな表情でいる。
(友達、ね。友達というよりも、父を求めてるんだろうなあ。この子供は)

「あ、もうこんな時間か。そろそろ帰るぞ」

 壁にかけてある、少し傾いた時計を見た少年はいそいそと椅子から降り、ランドセルを背負った。それから外へ続く階段へ小走りで向かう。

「お気をつけてくださいね」
「ああ、また明日来る」
「お待ちしてますよ」

 青年に手を振って、少年は階段を駆け上がった。ランドセルの軋む音が青年の頭にむなしく響く。
(家に帰ってもひとり、か。本当、この国はどうしちまったんだろうねえ)




 ランドセルの中から鍵を取り出した少年が、ようやく目の高さになった鍵穴に鍵を差し込むと、妙に響き渡る音を立てる。ドアを開け、鍵を二重に閉めてチェーンをかける。几帳面に靴をそろえて脱ぎ、真っ先にリビングに向かい電気をつける。薄暗かった部屋はやわいオレンジ色に染まる。
 少年はランドセルをソファに放り出し、テレビをつける。ちょうど夕方のニュースがやっている時間帯である。しかし芸能ニュースばかりのため、少年の興味をひかなかった。
(夕飯、どうするかな。でも腹は減ってないし。いいか)
 ソファに体を放り出し、惰性にテレビのチャンネルを回し続ける。しかしそれにも飽きたのか、ランドセルから筆箱とノート、教科書を取り出して勉強をし始める。
 普通、この年頃くらいの子供といえば勉強なんて宿題が出ない限りやるものではないし、テレビゲームやマンガ、アニメなどで時間をつぶすことが多いものだろう。それから友達と遅くまで遊んで親に怒られたり、学校であったことを親に話したり、あるいは親に対して妙な意地を張ったり。なかなか退屈に過ごすことも少ないものだ。
 けれどこの少年は一日の大半を退屈に過ごしていた。ゲームには興味もないし、アニメも少年にとってはくだらなく、暇つぶしにもならない。マンガを少年は知らず、読む本と言えば家に置いてある小難しい本ばかりだ。それに、少年は年にしては異様なほど大人びているし、言葉も難しい。同じ年頃の友達とは、会話も話題も合わない。そして少年は合わせる気もない。興味の対象は純粋に社会情勢やら、というものである。家に帰っても両親はおらず、ニュースも七時を皮切りに次々とアニメやバラエティに変わってしまう。
 だからこそ、少年はあの研究施設に乗り込むなどという暴挙に出たのだろう。態度や口が子供らしくなくとも、少年は少年なりに『子供らしさ』を持ち合わせていたのだ。
(し、ま、さ、こ、ん。字はどうやって書くんだろう)
 ノートのすみっこに、今日聞いた青年の名前をひらがなで書き(包帯でぐるぐる巻きの指のせいでいびつな形だが)、少年は頭を悩ませた。音は形にならないので、漢字まではわからなかったのだ。
(『しま』は『島』か『嶋』、あるいは『志摩』だろう。『さこん』はどう書くのだろう。『左近の桜』と同じ字かな、それとも『佐近』のほうか? それとももっと当て字っぽいのか……)
 思いつくかぎり漢字を思い浮かべ、少年はどれがもっともらしいかと考える。しかし本人不在では結局、想像にしか留まらない。明日聞けばいいのだ、と少年は諦め、教科書を開き勉強をはじめる。
(かけざん九九だって? そんなもの、とうに“そら”で言えるようになっている)
 少年の勉強意欲と聡明さなら、なにも公立の小学校ではなくて私立の小学校へ行ったほうが良いのかもしれない。だが、私立というものはお金がかかるものだし、なによりバックアップしてくれる人間がいないのだからしかたない。少年とて、それを理解してこの状況に甘んじているのだ。
(割り算もできる、棒グラフもできる、あまりが出る割り算もできる。……つまんない)

 とうとう最後まで教科書を読み終えてしまうころには、少年も大きなあくびをひとつしていた。