今日も包帯を変えてもらった少年は、少し機嫌がよさそうである。子供のわりに表情に喜怒哀楽があまり出ないものだから、青年はわかりやすい少年の感情を不思議そうにしている。
 青年がディスプレイとにらみ合い、耳障りな音を立てる機械にイライラしているときも、ホルマリンを取り出してあれこれと模索しているときも、資料を探すために部屋中を荒らしまわっていても、少年はどこか機嫌がよさそうだ。さすがに疑問も頂点に達したらしい青年はとうとう少年に問いかけた。

「なにがそんなに嬉しいんだい」
「別に」
「……そうですか」

 まったく収穫を得られず、青年はどうでもいいような、あいまいな表情でまた音を立てる機械に向かった。
 少年はというと、自分だけの喜びに微笑みを浮かべるなんて様子もなく、むしろ青年の問いに驚いているような、奇妙な違和感をもてあましているらしい。まるで初めて自分の手を見たとでも言うように自分の手のひらを見つめ、首をかしげている。
(機嫌がいいのか? 俺が? どうして)
 自分が機嫌のいい理由を考えているらしいが、思い当たる節もなく、結局あきらめたようだ。自分のことというのは、意外と自分ではわからないということも多い。少年もまたそのループにおちいっているのだ。

「そういえば、俺、オジサンの名前を知らない」
「名前? そんなもの別にどうでもいいじゃないですか。オジサンでいいですよ、オジサンで」

 青年は『オニイサン』と訂正したのに『オジサン』とあいかわらず呼ばれていることを気にしているのか、嫌味っぽい口調で答える。少年からすれば大人はすべてオジサンだが、青年からしたらオジサンはまだまだ先の話なのである。
 しかしその答えでは少年は納得がいかない。オジサンだとかオニイサンだとかは子供にとっては些細な問題であるのだから、とっくにそんなことは忘れてしまっているのだろう。

「俺の名前は知ってるだろう。それなのに俺がオジサンの名前を知らない」
「ぼうやの名前ェ? 忘れちまったよそんなの。まさか毎日顔を見ることになるなんて思ってもなかったんだからな」
「やっぱり、煙草が頭をばかにしている。石田三成だ」
「あー、そうそう、そんな名前。聞き覚えあります」

 キーボードをカタカタ言わせ、上の空で少年との会話を済ます青年に少年は少し反感を覚えたようだ。唇をへの字にして押し黙ってしまう。
 しばらく沈黙が続くと、青年が不思議に思ったのかちらりと少年の様子をうかがう。

「左近ですよ、島左近」
「ふうん」

 先ほどのしかえしと言わんばかりに、少年はそっけない。青年は食いつかない少年に苦笑いで、また作業へ戻る。

「さこん、変な名前」

 それでも、少年は名前を教えてもらい嬉しかったようだ。言葉は冷めたものだが、語調は嬉しげに跳ねている。機嫌の戻った少年に、青年は一息つき、はたと手を止めた。
(別に、こいつが機嫌が良かろうが悪かろうが、俺には関係ないじゃないか。ちょっとした縁で、毎日ほんの数時間、喋るだけだ)
 青年にとって少年は、侵入者用の罠にかかった小動物みたいなものといったところだろうか。掘り下げて言えば、年のわりに落ち着き、トークは大人顔負けと言えるほど達者な、かわいげのない子供だろうか。その認識を確認したらしい青年は、何度も頷きながらディスプレイをにらむが、最後にはかくんと首をかしげてしまった。興味のある小難しい話は考えられても、自分というものが対内的な面で関わってくるとすっかりその頭は役に立たなくなるという男である。
 すっかりと手をとめてしまった青年を怪訝に思ったのか、少年はおずおずと声をかける。少年には少年の、後ろめたさを感じる理由がある。

「怒った、か?」
「へっ?」
「変な名前と言ったの、怒っているのか?」
「あ、ああ、違いますよ。ちょっとこっちの話でね、お気になさらず」
「そうか、ならいい」

 青年が黙って停止してしまったのを、少年は勘違いしていた。それを青年は奇妙におもしろく思うし、興味深くも思う。しかし少年は理解できずもやもやとした気持ちを抱えるのだ。
(子供というものは視野がせまい。黙ったことが怒っているとは限らない。それゆえに一本道になりがちだ。よそ見をすることも、たまには必要なんだよ)
(なら、どうしてあんなに難しそうな顔をしていたというのだ。大人は、会話をしていたと思うとすぐに違うことを考えている。俺はそればかりに集中するというのに)
 お互いに、言葉を音にしないあたりがとても似通っているのだが、それをお互いが知る術はない。言葉は音や形にしないかぎり相手には伝わりにくいものだ。ましてや似通っているとはいえ、まだ数日の付き合いだ。
 ふたりして首をかしげ、気難しそうな表情でそれぞれ自由にしている。青年はようやく仕事が落ち着いたのか煙草をくゆらせ、少年は床に落ちているゴミをゴミ箱に向かって投げている(ゴミはいくら片付けても青年がそこらへんに捨てることが多いので、なくならない)。

「オジサンって、変なしゃべり方だな」
「そうか?」
「敬語とタメ口がごちゃごちゃで、混乱する」
「ああ、クセなんですよ。ぼんやりしてるときや、なにか説明しているときはタメ口になることのほうが多いみたいで」
「そうか? そんな法則なさそうだが」
「そういうぼうやは、大人に向かって尊大な口調ですよね」
「先生に向かってはちゃんとした言葉遣いだ」

 お互いに名前を認知したというのに、やはりオジサン、ぼうやと呼び合う。
 甘い煙を吐き出し、青年はぼんやりと天井を見つめ、少年はゴミを投げる。

「多分、敬語がクセなんでしょうねえ……。でも、子供相手に敬語なんてナメられちゃたまらん、と思うからたまにタメになるんだろうなあ」

 少年が尊大な口調で、青年が敬語を使うものだからどうにも立場が逆転しているように見える。けれど少年は一度も敬語を使おうとしたことはないし、青年はそれをとがめもしない。
 青年は近くに積んであった紙の山の一番上から資料を一枚ひっぱりだし、それを眺め始める。一度少年はそれに興味を示し、見たこともあるがさっぱりわからなかったということがある。だから青年がそれを読み始めると少年は本当に手持ち無沙汰になってしまう。

「それにしても、クラッカーが妙に多くないか? しょっちゅうビービーいってるぞ、機械が」
「別にクラッキング対策のみをしているわけじゃないんですよ」
「え、そうなのか?」
「もちろん。ここまで来る根性のあるクラッカーはなかなかいないんですよ。それで、人工衛星に宇宙のゴミが衝突したら、レーザーが少しずれるでしょう。その座標指定を正すんですよ。人員不足でねえ、本当、人使いの荒いこと」

 資料に目を通しながら、青年はスラスラと答える。だが、すぐにハッとして資料から目を離し、少年を見るなり早口に言う。

「今言ったことは秘密だからな。これこそ悪用されちゃたまらん」
「大丈夫だ。こんなことを話す相手もいないし」
「そうか……、ならいいんだが」

 青年はうっかりしていたようだ。少年の悪だくみするかけらもない表情を見てホッと安堵の息をもらす。そこまで少年を信用するのもまた問題があるのではないか、とも感じられるだろうが、『少年』であるからこそ、という思いもあるだろう。それも頭の良い『少年』ならなおさらである。
 しかし少年はそんな青年の心配などちっとも気にしていないようだ。少年は少年で、またひとつの思いに興味を示しはじめた。
(座標指定、か。いまいち実感がない。そもそもレーザーなんて本当にあるのかどうかすら、実感できていないというのにな)

「そんな重要なもの、ここに置いてあっていいのか? 俺みたいなやつがたまにでも来るのだろう」
「だからこそですよ。灯台下暗しってね」
「危機管理のまるでなっていないやつらだな。なら、中の研究所はなにをしているのだ?」
「あれは太陽光をレーザーにするためのセラミックスを調整したり、もっと効率をよくする方法を探したり……、受け取ったエネルギーを配給したりしてるんですよ。なにも、宇宙からエネルギーを送るだけが仕事じゃないんでね」

 少年の辛辣な言葉をスルーし、青年は半ばヤケになって放り出すように言った。
(適当に嘘をつけばいいんだろうけどな。子供だからって油断しすぎてるぞ、俺)