(いち、に、さん、し……、じゅういち、じゅうに、じゅうさんっと)
俯きながら歩いていた少年は、包帯の巻いてある指をかばうようにその罠を足で蹴り、すべり台に飛び込んだ。三度目ともなれば慣れたもので、すべる姿もなかなかサマになってきている。そしてマットへ着地する姿勢も完璧だ。
その部屋はほとんど昨日と変わらない。タンスから放り出されたものはそのままだし、山積みのゴミ袋も健在だ。配線はあいかわらずスパゲティで、使われているのかいないのかわからない台の上には細かな部品が散らばっている。ひとつだけ片付いているものがあるとすれば、フラスコやカップの破片くらいなものだ。
「来たぞ」
少年がそう言えば、青年はいつもと同じ場所から顔を出す。違うのことは、今日はメガネをかけていないということで服装も同じである。
「らっしゃいな。今日はずっとその椅子に座っててくださいよ」
「わかった」
マットの上にランドセルを置き、言われたとおりにパイプ椅子に腰掛けた少年は、テーブルに置かれたカップに気付く。昨日の出来事で学んだらしい青年は、少年が来る前にすでに用意していたようだ。
左手でそれをのぞきこみ、少年は口をつける。中身はジュースなんて気の利いたものではなく、コーヒーである。けれど少年は嫌な顔をしない。
「包帯ですけど、こんなもん見つけましたよ。傷にくっつかないアルミガーゼ。これなら大丈夫だ」
「わざわざ買ったのか?」
「ええそうですとも。俺は怪我なんて滅多にしませんからねえ」
「オジサンだって、包帯巻いてるくせに」
灰色のアルミガーゼをちらつかせ、青年はスパゲティを乗り越えて少年に歩み寄る。それに応え少年は包帯で巻かれた手を差し出した。
「しかしまあ、いろいろ不便でしょうねえ。トイレとか」
傷口に注意しながら、ていねいに包帯をはがしながら青年は言う。
「別に。左手で出来ないこともない」
「字だって書けないでしょう。勉強とかどうしたんです?」
「学校で学ぶことなんてたいしたことではないから問題ない。ノートの提出前に写させてもらう」
「さいですか」
傷口に軟膏を塗り、アルミガーゼで覆って、新しい包帯を巻いてゆく。その様を少年は足をプラプラと揺らし楽しげに見つめている。
「なにが楽しいんですか? 怪我してるっていうのに。若いというのに、そういう趣味でも?」
「別に。誰かに怪我を見てもらうというのは、楽でいいと思っただけだ」
「俺は楽なんかじゃありませんよ」
「だろうな」
包帯を結び、青年はさあ終わったとばかりに立ち上がり、また機械へ近寄り、ディスプレイを綿密にチェックしはじめる。包帯で太くなった指を見つめ、少年は小さく微笑んだ。手のひらの向こうにいる青年を見て、また微笑む。
「あーあ、またかよ。ったく……、なんだってこんなに出力が上がるんだか……」
「オジサン、今日はメガネをかけてないんだな」
「え? ああ、そういえばそうだな。寝て起きたらどっかいっちまっててね。だからコンタクトだよ。目に入れんのは嫌いなんだがねえ、背に腹は変えられんってやつだ」
「メガネの人間は、メガネを外すと薄い顔に見えるものだが、オジサンはそんなこともないんだな。普通にカッコいい」
「そりゃどうも。って、ぼうやに褒められてもなあ。どうせなら」
「女子高生がいいのか?」
直球な少年の問いに、青年は苦笑いで黙る。
長机の下のキーボードをカタカタと鳴らし、うるさく鳴る機械をコツンと叩く。
「このポンコツめ」
長机の上の機械は叩かれても音を出し続け、波線は大きく上下に振れている。別のディスプレイには英語がいくつも表示され点滅する。青年がキーボードを叩くと、その文字は次々に消えてゆく。
動き回らないようにと注意された少年は、その場で興味深げに青年とその周囲を見る。
(c、o、o、r、d、i、n、a、t、e、s? なんて読むんだろう、どういう意味だろう)
ディスプレイに残った最後の文字を凝視しながら、少年は首をかしげる。どうやら日本語は達者でも、英語についてはまだまださっぱりらしい。あるいは、この単語を偶然知らなかっただけかもしれない。
やがて青年の働きのかいがあってか、機械は口を閉ざし沈黙する。ギザギザの攻撃的な線はゆるやかな波線へ戻り、英語を映していたディスプレイも単なる図形しか表示していない。
「なんの仕事をしているのだ?」
ようやくひと息ついた青年に、すかさず少年は問いかける。ずっと青年が落ち着くのを待っていたらしい。肩を揉んでいた青年は振り返り、うーん、とうなる。
「守秘義務って知ってる?」
「仕事で知ったことを第三者にバラしてはならないという法律だろう」
「そ。だから教えられないのよ」
「自分で、ここはゴミ溜めだって言ったではないか。研究とは関係ないのだろう」
「ここはラボのゴミ溜め。だからラボの秘密がいーっぱいあるの。だから教えたら、ラボの機密事項を教えたことになるからだーめ」
「知る権利の話はどこへ行ったのだ。人に言えない研究をしているのか?」
ああ言えばこう言う。少年の言葉に青年は片眉をつりあげ、口をひきつらせる。少年はというと、当然の権利だとでもいうようにふんぞり返って青年の答えを待つ。実際、少年の言うことにも一理あるし、青年の言い分ももっともらしい。タチの悪い質問に青年はため息をつく。
「知ってるだろうが、ここは人工衛星で集めた太陽の光を大出力のレーザーに変換して地上に送るシステムを担う重要な場所だ。原子力発電所なんて目でもない。この国のエネルギー自給率の低さは知っているだろう。このシステムのおかげで、エネルギーの安定供給が可能になっている」
「知っているぞ。今や赤字経済だからな。弱味につけこんで天然資源を持っている国は日本に高値でエネルギーを売りつけてくるんだろう。だからこの研究の実用化は注目を浴びた」
「そ。けれどねえ、いいことばっかりじゃないんですよ何事も」
胸ポケットに手をつっこみ、煙草のケースを取り出した青年は中を覗き、からっぽであることを知るやグシャリと握りつぶしてそこらへんに放り出した。弧を描くゴミを少年は目で追い、それが床に転がったあとも見つめている。青年は居心地が悪そうにそのゴミを拾い、ゴミ箱に向かって投げた。
少年はポケットから昨日と同じ、棒つきアメを取り出して青年に手渡した。
「またどうも、っと。……ええと、なんでしたっけ。ああそうだ。もちろんこの開発には問題点がいくつもあった。実用化に向けても問題なら普通なんだがね、利用法についての問題だ」
「エネルギー供給以外にどう使うのだ?」
「どんなことも、悪用しようとするヤツがいるんだわな。たとえば、さっき俺は『原子力発電所なんて目じゃない』と言っただろう。つまり、これはどういうことかと言うとな、このエネルギーを利用すれば、町ひとつ、国ひとつだって簡単に壊すことが可能、っつうことだ」
「人が死ぬのか?」
「そりゃあたりめえだ。宇宙の太陽光をレーザー化して送ってるんだ、みんな黒こげさ」
顔のわきで、拳をパン、と開く青年に少年は身震いした。その少年の反応がかわいらしいものだから、青年はクツクツと笑いながら立ち上がる。少年とテーブル越しに向かい合うように椅子に座り、用意してあった自分のカップを手に取る。少年も思い出したように用意されていたカップの中を覗き、慎重に口をつける。
青年の話は少年にとって、少し規模が大きかった。そして理解しがたい話でもある。町ひとつ、国ひとつを滅ぼすなどという話は、いくら大人びているからとはいえこの年の子供には実感が沸かないのである。ただ、たくさんの人が死ぬという漠然としたことだけが少年を震わせるのだ。
「そういう悪用のしかたも可能だから、守秘義務がある。この技術は信用できるトコにしか漏らせないのさ。たとえ、そんな術を持たないだろうぼうやにでもね」
「でも、今、言ったぞ」
「ああ、そういえば言っちまったな。まあ、これは知る権利のうちに含まれていることだから問題はないだろ。……悪用云々は大人に言っちゃダメだかんな?」
「信頼できない大人とはオジサンのような人間のことを言うんだな。口が軽い。だが、俺は秘密を守る男だから安心しろ」
「やっぱり、言ってくれますねえ……」
頬杖をついた青年は、口角を上げて少年を見る。すました表情の少年はちっとも青年を意に介さない。
「それで、結局ここでお前はなにをしているんだ?」
少年は回帰する。