ガタンと音を立てて長机は少年に覆いかぶさり、火のついたバーナーや煮えたぎる湯の入ったフラスコ、三角パックの入ったドリッパーや用意されていたカップ、砂糖、ミルクなどが一気に宙に舞う。少年も青年も呆気に取られているようで、その瞬間は叫ぶことすら忘れているようだ。
 続いてガラスが割れる音が立て続けに鳴り響き、青年はハッと我に返る。

「わあ、落ち着け!」
「落ち着いているが、すごく、熱い」
「ぎゃあ!」

 バーナーにあぶられている指を見つめながら少年は落ち着いた口調で告げる。それを見た青年は顔を真っ青にし、バーナーに手を伸ばす。

「あぢい!」

 バーナーの火に触れてしまった青年はそう叫び涙目になりながら、ようやくバーナーの火を止め、元栓を閉める。そして周囲の惨状を確かめるべくひとつひとつを確認するように見渡す。
 長机は少年に乗りかかり、身動きが取れそうにない。ドリッパーは丈夫なガラスで出来ているから割れてはいないものの、カップは少年の真横で砕け、フラスコもまた少年の脇で砕けている。その湯に触れた青年はまた「あぢい!」と叫ぶ。それを浴びた少年はというと涼しい顔をして、やけどを負った指を眺める(少年に生理的反応がないのかというと否)。
(熱い、いたくなってきた。いたい、ピリピリジクジクする。泣きたい。でも目をこすったらいたそう。それに泣くなんてカッコ悪いし、取り乱したら負けだ)

「わっ、お前、すげえやけどじゃねえか! ちょっと待ってろ」

 自分のやけどのことなどとっくに忘れてしまったのか、青年は少年のただれた指を見るなり、動揺をあらわに部屋じゅうをかけずり回った。
 埃をかぶりつつあるタンスを上から下まで開けて、中身を放り出しながら目当てのものを探している。タンスの中から出てくるのは服だけではなく、ペットボトルや空の煙草のケース、ぬいぐるみ、本、クリップでとめた資料、ケースに入った薬など雑多である。そうしてようやく出てきたのが、安直なデザインの救急箱だ。

「待て。やけどにはそういう薬よりもなにより、冷やすことのほうが大事だろう」
「ああ、そうか!」

 冷静な少年の言葉に、ぽんと手をついた青年はさらに散らかった足元にも構わず、どたどたと走り、奥の小さなシャワー室のドアを開け、シャワーを流し始めた。
 少年はやけどをしなかったほうの手で、自分にのしかかる長机を浮かせ、抜け出しシャワー室へ向かう。
(足がいたい。でも、歩けないほどではない)
 Tシャツをどうやって脱ごうか試行錯誤している様子の少年を青年が止める。不思議そうな目で少年が見ると、青年は少し息を切らして早口に言った。

「ひどいやけどをした場合、服を脱いだら一緒に皮がもげちまうかもしれねえ。だから脱がなくていい」
「ひどいのはバーナーで焼かれた指だけだ。熱湯はあつかったが、皮膚がただれるほどではない」
「いいから!」

 青年は少年の首根っこを掴んでシャワー室へ放り込み、冷たい水を流し始める。冷たさに少年は驚くが、なにも文句は言わない。

「流水でないほうがいいのだぞ」
「オケがねえんだわ」
「それならしかたない」

 それでも少し配慮したのか、青年はシャワーの出る威力を弱める。
 しばらく水音だけが響く時間が続き、双方とも口を開きにくい気まずい雰囲気が立ち込める。その沈黙を唐突に青年が破った。

「ああ、親御さんになんて言ったらいいんだかなあ……」
「大人は保身のことばかりだ。俺のやけどは俺の責任だから、オジサンは別に悪いことはしていないぞ。それに、オジサンだってやけどをした」
「それでも、子供が近くにいるときは大人が見てなきゃならんのさ。俺のやけどなんて、ちょっと痕が残るくらいだし」
「ふうん。わからんな。でも心配することはない。親はいないから謝る相手はいないぞ」
「そりゃまた……、それでも、面倒見てくれる親類なんかはいるんだろうが」
「いるにはいるが、家にはいない」
「ぼうや、まだ十歳だろう。ひとりで家事ができるのか?」
「料理以外ならひとりでできるぞ。キッチンは背が届かないから使わないだけだ。それに作ってまで食べたいものがあるわけでもない」

 あまりに自分のことを悲劇ぶらない態度に青年はむしろ口をつぐんでしまった。少年は「どうした」と青年に問うが、青年はなにも答えられない。
(最近いるんだよなあ。子供の世話見ないやつ。こいつの親がどういう理由でいないのかわからんが、親にも製造物責任法を適用できればいいんだがなあ)
 なにも答えない青年に少年もまた口を閉ざす。つまならげに唇をとがらせて真っ赤に腫れる腕と、皮膚が少しおかしい指を見る。特にひどいのは人差し指と中指で、治っても痕になってしまいそうだ。

「利き手は右手だよなあ。ひとりじゃ包帯も変えられんでしょう」
「いや、慣れればできると思う」
「それでも、慣れるまでには時間がかかるでしょうな。ここに来たら、包帯替えてやっから、治るまで毎日来なさい」
「来ていいのか!」

 青年の言葉に少年は目をらんらんと輝かせ、身を乗り出す。少年にとってみれば、青年は侵入者だと邪険に扱うわけにもいかなくなり、ここへ来る正当な理由が出来たことになる。たった二回、ここへ来ただけだが少年はここが気に入ってしまったようだ(青年にとってみればとんだ災難だけれども)。青年は圧倒されつつ、あいまいに頷くだけだ。
 青年はシャワーを止め、先ほど見つけ出した救急箱を持ってくるなり、少年の腕に軟膏を塗りたくりはじめる。特にひどい指先は、指の腹で刺激をあまり与えぬよう慎重に撫でる。

「いたい」
「ったく、言ってくれれば俺がやったんですよ、あれくらい」
「オジサンは仕事をすると言っていた」
「だが、結局俺はこうして大きなロスタイムをごちそうになったわけですよ。まあ、火をつけたまま放置していた俺も悪いんですがねえ」

 何も言えなくなってしまい、少年は俯いた。自分が青年に大きな迷惑をかけているということは、誰よりも少年がわかっていることだろう。それをわかっていながら、青年はあえていじわるな言葉をぶつけるのだから大概性格が悪い。
 軟膏を塗り終え、救急箱からガーゼや包帯を取り出し、青年はどちらがいいのかと首をかしげる。

「やけどにはなにがいいか、知ってるかい?」
「知っているぞ。ひどかったら特殊なガーゼで覆っておくのだ。けれど、指先以外はひどくないから必要ない」
「困ったねえ、特殊なガーゼなんてあったっけかあ?」

 わずか十歳の子供に教えてもらうとは、と言うように青年はおどけるがすぐに真剣な表情へ戻り、唸る。

「別に指先の皮膚くらい気にしない。適当なガーゼと包帯でグルグルしとけばいいだろう」
「ぼうや、それ本当に自分の体かい? 体は自分の宝モンだぜ。もっと大事にしな」
「……知らない」

 プイッと顔をそむけてしまった少年に、青年は困り果てる。なぜそこで拗ねたのか青年にはちっともわからなかったのだ。
(親に大事にされなかったのに、自分で大事にする理由があるか。ばーか)

「ちょっと指、見せてくださいな」

 青年の頼みに少年は応え、手を差し出す。人差し指の第一関節と第二関節の間に、いつのまにか水がたまったように膨れあがった水疱が出来ている。それを見た青年は、胸ポケットからペンを取り出し、カチカチと回し、針を出す。

「針!」

 少年は驚き、手を引こうとするが青年がガッシリと掴んでいるためにピクリとも動かない。

「いやだ! 針は嫌いだ!」
「やあっと子供らしくなりましたねえ。注射のトラウマでも?」
「針嫌い!」

 少年の嫌がり方が尋常ではないので、青年は訝しげにするが、まず水疱の液体を抜かなくてはならないと考えている。青年に医者の心得はないが、素人観測でそうだと感じたからそうするようだ。
 しかし少年があまり必死に抵抗するものだから、ほんの少し躊躇したようだ。けれど、青年はとうとうプスリとその水疱に針を刺した。

「いたい!」

(ああ、もう、声が響いちゃってしょうがねえ)