あいかわらず人気のない幅広の道を前回とは違い、かけ足でゆく少年の表情はさっぱりとしているものだった。今日の陽気はまた一段と強く、少し気の早い半袖の少年は額に玉のような汗を浮かべている。
ランドセルが軋み、体操着入れはくるくると回りひもがねじれる。
今度はフェンスの向こうへ首をかしげることも、門の配慮の足らなさに舌打ちすることもせず、以前のように塀沿いにかける。前回と違うことは、上ばかり見ているのではなく下にばかり注意を向けているということだ。準備をしているとのいないのとでは大きな違いがあるものだ。
それでも少年は隠された原始的な罠に気付くことができず、突然に足元が消失する状況に目を剥いた。
(むう……、正門から何歩目だったか数えていなかった)
一度や二度ではやはり把握できなかったようだ。それでも前回よりはほんの少し成長した様子がある。少年は足を下にして、腕を組みううん、とうなる。今後のこともあわせて考えているらしい。それからつるつるとすべり、見事マットに着地した少年は、わくわくとした楽しみの表情で周囲を見渡す。
スパゲティ配線の向こうでは紫煙がゆらゆらと立ち上っている。
「オジサン、今日も来たぞ」
「ああ?」
変わらないシルバーフレームの細いメガネをかけ、短くなった煙草をくわえた青年が野暮ったい機械の向こうからひょっこり顔を見せる。格好は同じだが、前のときよりもぼさぼさの髪を撫でつけながら機械に腕をのせ、唇をとがらせる。
「オジサンだあ? オニイサンでしょう」
「俺から見れば大人はみんなオジサンとオバサンだ」
「かわいくないガキ」
少年から顔をそむけ、煙草の煙を口から吐き出す。それはため息と同じ意味を持っていた。少年はというと、ちっとも堪えた様子もなく真顔のまま青年を凝視する。見つめられた青年はなんだとも言いたげに少年と目を合わす。
「なんだ。昨日とは態度がぜんぜん違うぞ。注意したのにまた来たガキには懇切丁寧に応対する必要はないということか」
「……あのねえ。ぼうや、どこでそういう言葉を覚えるの?」
「これくらい知っていなければ、大人になったときに困るのだ。それと、今さら取り繕っても無駄なあがきだ」
青年は目を細め、なにも言い返せずに苦笑いを浮かべる。年のわりに口が達者な少年に感心する気持ちもあるが、呆れている割合が大きいようだ。
スパゲティを乗り越え、部屋の中央に置かれているテーブルに近寄り、灰皿を寄せて煙草をもみ消す。その様子をジッと見ていた少年は満足そうに何度も頷いた。
「煙草は体に悪いからな。ニコチンは頭をばかにするし、数本吸うと一日分のビタミンが死んでしまうのだ。吸う人と吸わない人では心筋梗塞になる確率がグンと違うし、なにより副流煙が腹立たしい」
「よくご存知でねえ。けど、やめる気はありませんよ。ま、子供の前じゃあ流石にスパスパしてられませんよ」
青年はエアコンのリモコンを手に取り、除湿モードに切り替える。それが煙草の煙を外へ出す機能を担うわけではないが、気持ちの上ではずいぶん変わるようだ。少年もにんまりと笑顔を浮かべる。
「で? 今日も中へ侵入するのは失敗したんですか?」
「ばかもの。一度かかった罠にまたかかるあほうがいるか。来たくてここに来たのだ」
「へえ? こんなとこに来ても研究のことなんかなんもわかりませんで。単なるゴミ溜めですよ」
ランドセルをマットの上に置き、青年の用意したパイプ椅子に座り、少年はテーブルに腕を乗せて青年を見る。青年は少年に背を向け、フラスコの水をバーナーで熱している。それからコーヒーのドリッパーにインスタントの三角パックを放り込む。
機械は機械らしい耳ざわりな音を立てる。少年は驚いてスパゲティと機械を見つめ、好奇心に満ちた目を覗かせる。ディスプレイに写る波線は狂ったようにギザギザの線に変わる。
「おやおや……、またですか」
青年はため息とともに、機械の前にしゃがみこみ、床に無造作に放られていたキーボードをすばやくタイピングする。
椅子から飛び降りた少年は青年のそばに寄り、その慣れた手つきを覗き込んで感心したように小さな声をあげる。青年は少年にちっともかまうことなく、カタカタとキーボードを打ち、長机の下にもおいてあるディスプレイをにらみつける。しだいにイライラしてきたのか、白衣の胸ポケットに入れてあるつぶれた煙草のケースを取り出すが、少年の存在を思い出したのか、少し手を迷わせ、やがて諦める。
「これあげる、オジサン」
「んん?」
「アメ」
少年が差し出したアメを受け取った青年は、ずり落ちてきていたメガネを上げ、アメをまじまじと眺める。原色のカラフルな包装紙に包まれた棒つきのアメである。
「煙草を吸わないと口元がさびしくなるって言うだろう。オジサン、彼女とかいなそうだからアメをあげるのだ。……あ、オジサン、ペドくさそうな顔してるな。俺はそんな趣味がないから、勘弁してくれよな」
「……あのねえ。本当にぼうや、どこでそんな言葉をね……。まあいいや。アメちゃんありがとうな」
青年は包装紙を破き、アメを口に含みゴロゴロ言わせる。破いた包装紙は適当に床に放り出して、そのままである。それを見た少年はというと、眉間にしわを寄せて捨てられた包装紙を見つめる。どうやらポイ捨てが気に入らなかったようだ。
部屋は乱雑としている。機械や配線、細かい部品があることを差し引いてもお世辞には片付いているとは言いがたい。床のいたるところにゴミが捨ててあるし、部屋の片隅にあるゴミ箱からはゴミがあふれ、隣には張り裂けそうなほどゴミがつまったゴミ袋がいくつも重なっている。いわゆる、無精者なのだ。
「オジサン、部屋、きったない」
「片付けるヒマがないんですよ、これでも。片付けてくれる彼女もいませんしねえ」
先ほどの少年の言葉を気にしているらしい。青年は『彼女』という単語を強めて、開き直った口調で喋る。その間もディスプレイをにらみ、キーボードを打つ手を休めない。
「オジサン、モテないんだ」
「んなワケないでしょう。こーんな色男、女がほっておかねえさ。これでもよりどりみどりで処女から女子高生、人妻熟女まで……っと、お子様にはわからんかな」
「女子高生? オジサン、それはインコー罪だろう」
「淫行罪……、ぼうや、少し黙っていてくれないか。俺ァ、ぼうやの話し相手になることが仕事じゃねんだわ」
キーボードを打つ手をとめ、額を手で押さえた青年はシッシと少年を追い払うしぐさを見せる。
(なんだよ、今まで普通に仕事をしていたくせに。都合の悪いことになると大人はみんなこうだ。本当はインコー罪なんだろう? 図星なもんだから、話題をそらそうとするなんて、ズルイ)
頬を膨らませ、パイプ椅子に乱暴に腰掛けた少年はバーナーにあぶられぐつぐつと煮えたぎるフラスコの湯を見つける。危ないと思ったのだろう。少年は青年を呼ぼうとしたのか青年を見るが、あいかわらず忙しそうにディスプレイとにらめっこをしている。何度か口を開きかけるが、そこらへんの分別はあるようで、結局口を閉ざし、自分でそこへ向かい、手をのばす。
少年の背より少し高い長机に載っているバーナー。危うげに手をのばすが青年は気付いた様子はない。
「ぬー」
ぷるぷると手を伸ばし、バーナーの金属部分に手が触れる。
(あつっ)
子供らしく声をあげることもせず、大げさなほどに手を離し、少年は赤くなった指先を見つめる。
(どうしよう……。手は届かないし、でもオジサンは仕事してるし。俺が勝手に来たし、その俺のために多分用意していたんだし、俺が片付けたほうがいいよな)
また少年は長机を掴み、手を伸ばし、爪先立ちでバーナーを慎重に探す。手探りであるのと、先ほどの痛みを覚えてしまったせいでおそるおそる、という具合だ。その手つきがさらに危うさを孕んでいるのだが、少年は気付かない。
(あ、あった。ここは熱くない)
「しまった! バーナーの止め方、知らない!」
「ええ? あっ、ちょ、ぼうや!」
少年が動揺したのには様々な理由があるだろう。バーナーの止め方を知らないと気付いたことや、青年が気付いてキーボードを放り出して立ち上がったことや、長机のバランスが悪かったのか、ガタリと音を立てて倒れてきたりしたものだからしかたないのだろうけれど。そして少年は、バーナーの比較的熱くない箇所を見つけ油断していたということもあるだろう。
青年は口に含んでいたアメが落ちてしまったことも構わずに叫ぶ。