青年に残された課題は膨大なものだった。
 シャワー室で冷たい水を浴びながら青年は(そうか、今は春か。十周忌みたいなものか)と、物思いにふける。だが青年にはそれよりも深く考えるべきことがあった。それを端的に言うと『彼自身について』だ。
(はたして、俺は何者であるか)
 青年はひとつのパーソナリティを持っているが、それは複製されたものである。非常に繊細かつ難しい問題だ(ヒトクローンを牽制する働きが一時期あったものだが、こういった、“複製された側”が個人について考えた場合に複雑な心理が働くことを懸念したのだろう)。
 問題が問題なだけに、青年はひとりで答えを導き出すほかない。
(俺が石田三成であると考えるのならば、俺と数多を殺したのも『俺』である。だが、俺は厳密に言うと違う人間だ。だが記憶は共有しているし、おそらく言動のパターンも似ているのだろう。だとすれば後者は『逃避』になる)
 一見、事実を受け入れ至極冷静に考えているようにも見えるが、挙動の節々に行き場のない激情が見え隠れする。
 青年は、とうてい誰もが答えられないような問題を前に途方にくれていた。
(激情と冷厳としたものがないまぜになっている)
 シャワーを止め、タオルで頭を拭き、すばやく衣服を身に着けた青年は難しい顔のままシャワー室から出て、男の姿を視界にいれる。男は椅子に座り、青年に背を向ける形でビールの缶をかたむけているところだった。

「よくわからないが、突然の事実に頭が混乱しているらしい」
「客観的ですねえ」
「オジサンが嘘をつける人間だったならよかったかもしれないな」
「ついていい嘘とそうじゃない嘘があるんですよ」

 青年がムッとして男の髪を引っ張ると、男は情けない声をあげた。

「難しいことは知らない。単純な答えがほしい。俺は、つまり、自分をどうと認識すればいいのか」
「それをオジサンに聞いてどうするんです?」
「やりっぱなしはヒドイだろう。それともそれが男の甲斐性だっていうのか? 一応、作ったのだから責任を持て。ああ、あれだ、製造物責任法だ」
「責任持てって……、なんですか、なら、結婚でもしろってんですか?」

 空になってしまったらしいビールの缶をゴミ箱に投げ、男は振り返り青年を見た。男の表情は軽薄さすら感じさせる苦笑いだったが、青年はいたって真剣な表情で相槌を打った。

「なるほど。責任を取ってもらおう」
「はあ?」
「ちょうどいいではないか。俺は自分がどういうものかよくわかっていない。それをオジサンにいろいろ聞いてみたいと思っていた。オジサンは俺と話したいと言っていた。なるほどこんなに円満な解決方法があったのか。よし、世話になる」
「ちょ……、冗談っすよね」
「冗談で言うものか。俺は単純に知りたいことがたくさんある。その上で結論を出す。オジサンを蔑むか憎むか、はたまた感謝するか称えるか、まだそういう境地に達してはいない」

 つらつらと言葉を並べ立てる青年に、男は苦笑いを本格的なものにした。
 それを知ってか知らずか、青年は「良い提案だ」と言わんばかりに仮眠室へ向かい、自分のゾーンを作りはじめる。本格的にそこへ居座るつもりだ。
(どう反応したらいいんだ)
 男は頭を抱えた。口をついて出た冗談を本気に取られてしまい、困惑するばかりだ。

「察するのだ。俺がいかに不安に思っているか、下手したらその罪悪に押しつぶされてしまうであろう脆さに」
「自分で言うもんじゃないでしょう」
「言わなきゃわからんこともある。友達でもな」

 青年の言葉に、男は弾かれるように顔を上げた。
 青年は仮眠室にて布団を整えているから、男には青年が見えなかったし青年にも男は見えなかった。だが、男の呼吸が明らかに変わったことを青年は敏く気付いたようだ。

「オジサンがな、嫌だ、お前は違う、なんて言っても、俺は知らん。俺はオジサンを友達だと記憶している。これまた難しい問題なのだ。同じ記憶を持った別の人間を、“誰”と認識するか。哲学なのか心理学なのか生物学なのか、それは知らんが、難しい問題だろう。記憶のほうをパーソナリティとして認識するか、それとも肉体をパーソナリティと認識するか。主観も客観もひどく困惑する。主観的に考えれば記憶のほうを優先したい。だが、客観的に見ると視覚的情報が先立つ。俺はまたそれとは少し違う問題かもしれないが、似たようなものだろう。だが紛れもなく俺はオジサンを友達だという記憶を持っているし、『俺』というパーソナリティもそう考えている。だからオジサンは友達だろう」
「……友達は、結婚しませんよ」

(この期におよんで、俺を友達だなんて、言えるのか? 俺にはその経験がないからなんとも言えないが、そうやって割り切れるものなのだろうか。本当は、彼自身が言うように不安で、押しつぶされそうでしかたない。言葉の上では割り切ることなんて簡単だ)
 男は混乱を隠すように煙草を取り出した。しかし混乱は隠れず、ぽとりと煙草は長机の上を転がった。
 そこで仮眠室を出てキッチンからひょっこりと、あほを見るような表情の青年が顔を出した。

「オジサン、ばかだろう。男同士ではこの国は結婚できないし、俺はオジサンと結婚するつもりはない。責任を取って面倒を見てもらうだけだ」

 面食らった男は、ライターの火をつけっぱなしにしたまま歩き出した青年を見つめていた。青年はそのまま、本棚の前に積まれている本の上に座るぬいぐるみを手に取った。
(俺が目覚めたとき、こいつは隣にいた。オジサンは意味がわからない。思い出すきっかけを置いてみたり、かと思ったら罵倒してほしそうだったり。忘れないでほしい、と、忘れてほしい。人間というものはたいてい、相反する感情を持っているものだ)
 ぬいぐるみの顔をつぶしたり引っ張ったりした青年は、それを長机に置く。

「はとが豆鉄砲くらったような顔して、なにがおかしい」
「いえ……、本当に、親御さんとは似てらっしゃらない子だな、と」
「俺の両親を知っているのか?」
「ええ、そりゃ、県外にお住みになられていたようで、十年前に押しかけてきましたよ」
「よし、今夜はそれを子守唄に寝る。寝て起きたら多分、また考える」

 青年は仮眠室へ向かい、男は重い腰を持ち上げて青年の後を追った。









(おそらく、『俺』が何者であるという明確な答えを出すことはできない。だが、被験者であった俺が出しえなかった真実を『俺』は出すことができる)

(おそらく、俺はこの子供に対しずっと負い目のようなものを感じ続ける。だが、それと同時にこの子供と俺はあるプロセスを共にすることができる)









 青年が漠然としたはっきりとした形を持たない想念を昇華させるとき、男は笑って告げる。

「あなたの名前の由来、聞いておきましたよ、お袋さんに。ええ、似ていなくとも、あなたの母親です。もちろん。あなたは胸を張っていい。あなたはまごうことなくぼうやですよ。俺が言うことではないけれど」