青年は自分の指先を見た。傷一つない象牙のような美しい指先である。対して男の指先には、うっすらとやけどの痕が残っている。
 頭をかきむしり、青年はぶつぶつと呟きつつも同時に思考した。
(挿し木の記憶移行による影響、挿し木の記憶移行による影響、挿し木の記憶移行による影響……、挿し木、挿し木……、クローン。挿し木は、クローンのことだ)

「傷が、ある、そう、オジサンには傷がある。俺には傷がない。オジサンは十年間の記憶がある。けれど、俺には、ない。十年間は空白だ!」

 取り乱す青年の腕を男は慌てて掴もうとするが、青年は勢いにまかせて男の手をはらう。男は少し戸惑うが、また手を伸ばす。それすらも青年は振り払った。

「これは、煙草のやけどだ」
「違う、俺はそれに見覚えがある。バーナーのやけどだ」
「勘違いだ。記憶違いは誰にでもあることだ」
「違う、違う! 挿し木の記憶移行による影響! クローンだ!」

 感情のままにわめき散らす青年の腕を掴むことを男はあきらめた。かわりに、長机を越え、ふらつく青年の肩を掴む。

「落ち着け、俺のやけどは残ったが、ぼうやのやけどは消えたんだ」

 先ほどまで自信たっぷりに喋っていた青年は、その姿などまったく想起させない覇気のない表情で男の顔を見る。男はひどく真剣な顔をして、青年を見つめている。それが青年には遠い世界のように感じられているようだった。
(そうだ、俺はあの日、ちょっとした出来心を持ってしまった)



『オジサン、どうする』

 少年はぬいぐるみに話しかけ、困ったように音の鳴る機械を見ていた。
(確か、オジサンはいつも、こっちとこれのキーを叩いていたけれど……)
 少年は青年と同じようにディスプレイをにらみつける。
 機械の不協和音が少年の心を焦らせた。
 階段を慌しく青年がかけおりてくる。


(その後だ)


 ぬいぐるみを脇に据え、少年は青年のようにキーボードを叩く。だが、不協和音はいっそう高まった。ディスプレイは赤く点滅し、少年は冷や汗をたらす。
(違う、これじゃない!)
 のどからかすれた吐息を吐き出した少年は立ち上がり、よろよろとひとつふたつ下がり、慌しく部屋にかけ込んだ青年は機械に飛びついた。

『なんてこった、軌道がずれている!』

 青年は荒々しい手つきでキーボードを叩く。ぬいぐるみは横たわり、宙を見つめたままぴくりともしない。
 機械音はいっそう高まり、間隔も短くなった。

『ごめんなさい……、ごめんなさい、ごめんなさい!』

 少年は恐ろしくなり、その場からかけ出した。
 子供に限らず、自らの手が加わって悪い結果に転んでしまったら、人というものはひどく逃げ出したい衝動に駆られてしまう。少年の行動はその本心に従ったままの、ありのままの姿である。
 階段を上り始めた少年を、青年が呼び止める。

『ぼうや、だめだ、あと十秒もしないうちに――』



「そうだ! 俺がばかだったばかりに!」

 弾けたように青年は叫び、肩を掴む男の手を振り払おうとした。しかし男の力は青年よりもずっと強く、青年はむだにもがきつづけるだけだ。
 男は青年の背に手を回し、抵抗を押さえつけるように深く抱きしめる。

「俺が殺した!」

(テレビがついていた。電気がついていた。水道が出た。国ひとつは消えなかった。けれど、きっと、町ひとつは消えた)
 それは青年の憶測にしかすぎないが、男の話を要約すればそうと考えるのは当然のことだ。そして男は否定しない。それが青年を加速させる。

「俺も、死んだのだろう」
「生きています」
「死んだのだろう」
「生きています」
「いいや、死んだ。俺は、挿し木なのだろう」
「でも、ぼうやはオリジナルの記憶を持っているし、同じ体で、成長した大人の体だ」
「俺の記憶は十年分ない。バーナーのつけかたを知らない。やけどがない、どうしてだ」
「クローンではないからです」
「なら、どうして俺はここにいる」

 男に頭をあずけ、青年は顔をうずめる。表情は今にも崩れそうなほど危うげなものであるが、男にはそれが見えない。男の表情もまた、青年と似たようなものである。
 青年の質問に男は黙っている。

「……俺に、そのことは言わないつもりだったのか」
「ええ、言いたくなかった」
「ああ、何から言ったらいいのかわからない。俺は誰なのかもよくわからない」
「ぼうやはぼうやです」

 その答えに、青年は押し黙った。呼吸は非常に浅く、肩が落ち着きなく上下する。反対に男の呼吸は深く、異様なほどゆるやかな肩の上下に青年はまた顔をうずめる。
 しばらくして、青年は男の胸に手をついて、男を引き剥がした。ようやくお互いの顔を認知したふたりは、何も言えずにただただ黙る(なにかを喋ってしまえば、冷静さを失ってしまいそうなほどの沈黙)。
 だが、青年がその沈黙を破った。

「俺は、死んだのか?」
「生きていますよ」

 同じ問答をくり返す。先ほどと変わらない言葉だが、腹の下で動く感情は明らかに違うものである。

「おかしい、狂っている!」
「自覚はあります」
「死んだ人間だぞ、俺は! それなのに、どうして俺がここにいる」
「生きているから」

 揚げ足を取るような言葉遊びに青年は柳眉を逆立てた。
 男の表情は途端に路頭に迷う薄汚れた人間のように、乏しいものとなる。

「おかしい、おかしい、おかしい! 俺がこんな感情に悩まされるなんて、おかしい! 俺が生きているなんておかしい! 俺が、深い罪悪に悩むなんておかしい!」

 青年は落ち着きなく歩きはじめ、ぐるぐると同じところを何度も回る。歩く速度は早く、まだこれからも早くなる勢いである。

「だって俺は、死んでいるはずだ。俺の『知的好奇心』と名づけられる『悪』が頭をもたげ、俺は逃げ出した。つまり人工衛星からレーザー化した膨大な太陽光をじかに浴びて、死んだはずだ。そういうことになる。それなのに俺は生きている。『俺』と同時に多くの人間の命も奪ったはずなのに生きている。俺はそのことに関し、ひたすらに懺悔をくり返さなくてはならない。俺は『俺』をも殺したというのになお懺悔し続ける。あまりに傲慢ではあるがこれは理不尽だ」

(“これすらも”逃げている)
 ふと立ち止まった青年は、急速に頭が冷えていったのか表情は無垢なるものである。
(……哀しむことではない? わからない。嘘だろう、とは思う。だけど、実感があるのかないのかすらわからない。だが、俺は俺であるという傲慢な気持ちもない。取り乱したのは、多分、自己愛からだ。自分の存在をある種の形にて否定され、自己の居場所にぽっかりと穴が開いたように感じたからだ。前代未聞の境地に立たされた自分をおもしろがって、かわいそうぶっているだけだ。取り乱すことはない、取り乱すことはない)
 男は煙草をふすぼらせ、青年の動向を見守っている。そのあまりに落ち着いた男の様子に青年も感化されるように、パイプ椅子に腰掛けた。

「聞いていいか」
「どうぞ」
「抽象的な返答はなしだ。俺は、いわゆるクローンであるのか」
「……ま、生物学上はそういう位置づけになるでしょうな」
「クローンというものはひとつのサンプルから“まったく同様のもの”を作り出す技術だ。俺が十歳の子供ではなく、二十歳の大人の姿である理由は」
「厳密に言えば、クローンはそういう技術ではないからです。細胞の核を人間や人工子宮に着床させ、出産という形をとるのが一般的な技術」
「なら、俺は現在十歳でなくてはならない。十歳の俺が死に、それから作られたというのならば、二十歳の俺がいるということは考えられない」
「もっと厳密に言えば、これはクローン技術の応用みたいなもんですから」

 男の指先の煙草が、ジジ、と音を立てる。青年はそれをチラリと見たが、すぐに男に視線を戻し、続きを促した。