『愛していますよ、みんな』
青年は男のこの言葉がさっぱりわからないうえに、どうにも表現しがたいけったいなつっかかりがあるらしい。ぼりぼりと頭をかきむしりながら幅広の道を歩いている。
今日は日差しが強い。春のうららかな陽気と言うには、初夏のにおいすら感じさせる強さだ。
薄手のシャツをまくりあげ、フェンスの向こうをなんとはなしに見つめながら歩く。
緑色で、青年が少年であったころと変わらない長さの草がじゅうたんのように生えている。優しい風が吹くと草はおだやかに波と涼やかな音を提供する。
(愛している、みんなを。だからあっちこっち女で遊ぶのか?……いや、オジサンは本当に遊ぶ暇なんてあるのか? 俺がいくと、オジサンはいっつもあそこにいるし、たいてい俺もそこで寝泊りしている。女と遊ぶならやっぱり夜だろうし。俺がいないときに遊んでいるのか? でも、俺は思い出してからというもののほぼ毎日通っている)
そこで青年は門を目に留めた。あれからというものの、開きっぱなしである。
(そうだ、聞いていなかった)
肉じゃがやらなにやらに気を取られ、青年はすっかり男に聞くことを忘れていた。しかし男も男で、なにか異変があるのならば青年に言うだろうし、たいしたことではないのかもしれない。
青年はすべり台に飛び込み、少しの間考える。
(愛している、愛している、愛している。変な響きだ。あいしている。うん、やっぱりこの響きはなじまない。奇妙な日本語。きてれつな日本語。俺の知らない日本語、いや知っている。でも変な感じがする)
マットに着地した青年は、メガネをかけて本を読んでいる男を見て驚いた。
「そうだ、オジサンはメガネの人だった」
「いきなりなんですか……」
すべり台からやってきたと思ったら、メガネの再確認である。
本から顔をあげた男は、メガネを外しながら呆れたように言った。
「いや、そうだ。オジサンはメガネをかけていたんだったな、と思い出したのだ。どうしてかけていなかったのだ? コンタクトは嫌いじゃなかったのか?」
「視力がよくなったんですよ、本を読むときはかけるんですけれど」
「老眼鏡みたいだな」
青年の悪気のない率直な感想に男は閉口した。
しかし青年はさほど気にした様子もなく、男が読んでいる本に興味を示した。男の持っている本は『挿し木の記憶移行による影響』と題字された、本というよりも資料集といった見た目の紙切れの集まりである。
「なんだそれ。そういえばオジサン、記憶がどうこうの研究をしているって言っていたな。また、難しそうな話だ」
「これは、俺がまとめた論文ですよ。去年かおととしくらいだったかな……。久しぶりに見つけたんで」
「これを? 全部? オジサンが?」
「なにか?」
あんぐりと口を開けた青年は、男の持っている紙切れの集合体を上下左右から観察し、信じられないと言わんばかりに目を見開く。その本に似た資料は青年の親指の第一関節まではあろう厚さである。
男は不満げに唇をとがらせ、それを丸めてゴミ箱へ向かって投げる。空中でばさばさと紙が音を立て、無様なかっこうで床に落ちた。男はめんどうそうにそれに近寄って、ゴミ箱に確実に捨てた。
「いいのか?」
「いりませんよ、あんなの。詭弁にしかすぎない」
「せっかく研究して、あんなに分厚い論文を書いたっていうのに」
「別に、手間ひまなんて問題にはならない。結果ですよ、結果」
「いやな大人だ」
「ぼうやだって、いつかはいやでもわかりますよ。きっとね」
「そんな大人にはならない予定だ。あしからず」
青年は男の言葉を(利他主義と利己主義の矛盾した存在)と考え、男は青年の言葉を(いつまでもピーターパンのねんねのぼうや)と考えた。
しかし双方この話題にはもう触れず、男は青年にコーヒーを差し出した。
「そういえば、正面の門が開いていたけれど、研究所の情報とやらはいいのか?」
「ああ、それなら問題ないですよ。もう、ここではやっていないんでね」
「そうなのか?」
青年は驚いて、コーヒーのカップを持ったまま硬直した。
(奇妙な日本語。違和感がある。不思議な言葉)
男はというと、ドリッパーから自分のカップへコーヒーを注ぎながらに答える。青年は必然的に男の背を見ていることになる。
「ええ、そうですよ。近隣住民の苦情が殺到しまして。今は、どこでやっているんでしょうねえ。興味もないし、知りません」
「苦情が多かったからやめるのか? そんなんだったら最初からやらなければいい」
憤慨するように背もたれによりかかり、青年はコーヒーに口をつける。鼻息が少し荒く、男は青年に見えないことを承知で苦笑いする。
青年の言うことも極論ではあるが一理あるものだ。ささいなクレームでやめてしまうほどの精神であるのならば、最初からやらなければ無駄な労力は使わなくてすむし、その時間で別のことができるのだ。だが、それはあくまでも青年の偏った視点からの物言いである。その苦情というものがどれほどのレベルかも知らないし、どうしてもやめなくてはならないような欠陥があったかも知らない。
「そう、本当に、最初からやってなければよかったんですよね」
男は青年に背を向けたまま、聞こえるか否かというほどの小さな声で呟いた。
「だろう? オジサンもそう思うだろう?」
男の声をすばやく拾った青年は身を乗り出して男と意見が合ったことを喜ぶ。
青年と男では、言葉は似ていても明らかにベクトルが違うものであるのだが、青年は少しばかり興奮しているのかそのことには気付かず、拳を握って喋りはじめた。
「そもそも、人間には過ぎたシロモノだったのだ。人間はああいう、膨大なエネルギーを操ることによってかしこくなったような気でいるが、むしろ俺はばかだと思うな。たしかに今までに誰もしなかったようなことをした、ということはすごいことだとは思う。だが、ばかだ。自分たちに扱えるエネルギーというものをまるでわかっていない。分際というものをわきまえるべきだとは思わないか? かしこい人間は、そんな使いかたひとつで人を殺せるようなものなんて、考えはしても作らないだろう。なぜなら、かしこい人間は、人間の中にある『悪』という象徴的な存在を知覚しているからだ」
ひざを進め、青年はインテリぶってあれこれとまくし立てる。男は時折「ええ」とか「はあ」とか相槌を打ちながら青年の演説に耳をかたける。
「昔オジサンが言ったように、このシステムはあまりに膨大なエネルギーを利用している。だからこそ、悪用されたらとんでもない規模の犠牲がでてしまう。その心が『悪』なのだ。その悪から細分化してこの心を言葉にすることもできるが『悪』という言葉のほうが単純でわかりやすい。かしこい人間はそれを知っているからこそ、そんなものは作ろうとは思わない」
「だが、見たこともない技術に純粋な好奇心を持って研究する人がほとんどだ。それを利用しようなんていう人間がいたからぼうやのいうばかになるんですよね」
「とどのつまり、人間なんてものはみんなばかなのさ。かしこいふりしたヤツもばか。ただのばかはもっとばか」
「こりゃまた手厳しい。俺も、ぼうやの言う『かしこいふりしたばか』なんでしょうね」
「そして、こうして大手を振ってえらそうに演説している俺もばかだ。その研究施設に興味を持って忍び込んだのだからな」
珍しく青年はいたずらっぽく笑い、拳をほどいた。
「だが、ばかではない人間なんて、本当に、これっぽっちもいないだろう。多数決社会のこの国では、ばかが『正しい』ことになる」
「民意ってやつですからねえ。ま、かしこい人間なら『ばか』に合わせるくらいはしてくれるんでしょう?」
「だろうな。俺はばかだから知らんが。かしこいやつは『ばか』にもなれるのだ」
そこで、すっかり話がそれてしまったことに気付いた青年は、恥ずかしげにせき払いをひとつした。コーヒーを一口含み、高ぶった気持ちを落ち着かせようとするが、なかなか収まらないらしく、もう一口コーヒーの世話になる。
男は青年にドリッパーを見せ、必要かと目で問う。青年は首を振った。
(変だ、なんか、違和感がある)
「どうか?」
「あ、ああ……、なんか、妙な感じがする。こうやっていろいろ言ったというのに、なんだか実感がわかない。これは俺の言葉であることはたしかだし、俺の経験からそう結論を出したというのに、なにかがおかしい」
「難しい疑問ですね。他人が言ったことを鵜呑みにしておうむ返しのように口にしているのならわかるんですけれどね」
「ああ……、変だ。変な、感覚がする。ねえ、オジサン、手を見せて」
「手? 別にかまわんが……」
男は首をかしげながら青年に手を差し出した。
汗ばんだ手で青年は男の手を取った。
(気のせいであればいい、俺の考えすぎであればいい。このくすぶる違和感を殺してほしい)
青年は、おそらく叫んでいた。