「しょうゆ、砂糖、みりん……。和食だな」
「食べながら分析しなくてもけっこうですから」
「ふむ。肉とじゃがいもが入っているから肉じゃがなのか。肉がなければ『じゃが』になるのだな?」
「知りませんて」
じゃがいもを箸でつかみ、目で味わうかのようにしみじみと見つめる青年を尻目に男はもくもくと食べる。
青年もじゅうぶんに肉じゃがを目で堪能したのか、ようやくじゃがいもを口に放り込む。じゃがいもは熱かったのか、思わず口元を手で覆い、青年はうっすらと涙さえ浮かべひっしにじゃがいもを咀嚼しようとする。
「猫舌ですか?」
「あひゅ……、あひゅい」
「……そうですか。落ち着いてくださいね」
なんとも的のずれたやりとりをしながらも、青年はようやくじゃがいもを飲み込み、大きく息をついた。
「この肉じゃがは、肉じゃがのレベルとしてはどれくらいの位置にあるのだ?」
「素直にうまいって言えばいいじゃないですか」
「ふつう」
「さいですか」
男は片笑いを浮かべながらもくもくと食べ続け、青年もまたそれに倣う。
見た目の美しさや青年の無口さからうかがうに、男の作った肉じゃがはけっしてまずいものではないだろう。男は自分で作った料理をうまいとは言わず、青年も熱さへの無駄な反抗で「ふつう」と答える。青年の反応はかわいらしい意地みたいなものなので、イコールでうまいに結びつけても問題はない。
しらたきをコリコリと噛み、きちんと飲み込んでから青年は口を開く。
「バーナーのつけかたを知らなかったからコーヒーをいれられなかった」
「そんなの簡単でしょうに。ガス栓を開いて、内側の筒を回して調整しながら、マッチで火をつけるんですよ」
「ふうん」
簡単とは言いながらも男は身振り手振りでガスバーナーのつけかたを教授する。青年は実物のガスバーナーと男を見比べながら、気のない返事をする。
(忘れてたな)
すっかり食べ終えたふたりは、どちらが洗い物をするかじゃんけんで決め、負けてしまった青年はシンクにころがる鍋やざると格闘しはじめる。その間、男は長机にもたれかかり、ぐったりと腕を伸ばす。
「洗剤はー?」
青年の声に、
「下の棚にあるはずでーす」
と答えた男は、のっそりと起き上がって、青年が読んでいた文庫を手に取った。ペラペラとページをめくり、文字を目で追う。
(そういえば、こんな本もあったな)
不可解かつ、不愉快さをそなえたその文体に男は眉根をよせて文庫を放り出した。男はその本が気に入らないらしい。ならばなぜ持っているのかというと、それは彼にすらわからないことだ。
ガタガタと鍋がシンクに蠢く音が止み、水が流れる音がする。
けっして穏やかとは言えないが、不規則ではあるが似たような水音を聞いているうちに、男はうとうととまどろみはじめた。長机にあごを乗せているだけでは痛かったのか、転がっていたぬいぐるみをあごの下に敷き、目を閉じた。
(人がいる、っていうのは、いい)
洗い物を終えた青年がキッチンから出てくるころには、男はほとんど意識を飛ばしていた。慣れない家事などをして疲れたのだろう。青年は男を起こさないように足音をしのばせ、あいかわらず床に放ってある煙草のケースを拾い、ゴミ箱へ投げ捨てた(たんまりとあったゴミ袋がなくなっている)。
それから長机の上の灰皿を見る。茶色いフィルターの煙草がぎっしりとつまっている。それをゴミ箱に捨て、水でこびりついた灰を洗い流す。
(そういえば、オジサンは甘いニオイのする煙草を吸っていた。たしか黒い煙草。けど、茶色だった。俺に気を使っていたのかな)
青年は灰皿の隣に置いてあった、男の煙草とライターを思い出す。たいてい、こういうもののきっかけは出来心や付き合いである。青年には前者が作用したようだ。
煙草を一本取り出し、ライターで火をつける。
(つかない)
煙草の先は黒くなるばかりで、いっこうにくゆる気配がない。二度三度ライターの火をつけなおすが、黒くなるだけだ。
「煙草はねえ、吸いながら火をつけるんですよ」
「わっ」
ぬいぐるみに顔をうずめたまま、男は青年に視線を向ける。口元には薄い笑みを浮かび、いかにも、な間違いをする青年をからかうようだ。
驚いた青年はバツが悪そうに言われたとおり、吸いこみながら火をつける。
「ごほっ、げほっ、ほっ……」
「ははっ、むーせーてーるー」
口から煙を吐き出しながら、涙をにじませむせる青年を男は笑う。
「これは毒だ」
「ええ、毒ですよ。ただ、人工的にため息をつくための道具です」
「ため息くらい自分で制御しろ」
フィルターをくわえ、吸い込んだと思ったらすぐに青年は煙を吐き出す。つまり、フカしているだけである。そのことに青年はもちろん気付いていない。男はそれがおかしいのか、控えめにクスクスと笑う。
男は青年に向かい、手を差し出す。青年は少し戸惑い、男に煙草とライターを渡す。男は一本煙草を取り出し、ライターで火をつける。
青年の形のはっきりとした煙とは違い、あいまいなぼやけかたをした煙を吐き出す。
「黒い煙草は吸っていないのか?」
「ああ、あれはぼうやがいたときだけね。それに、もう製造していないみたいですし」
「うむ。煙草なんて必要ないぞ」
まだ長い煙草を灰皿に押し付け、青年は何度も頷いてみせる。
「ため息、つきたいんですよ」
ふう、とため息とも取れる煙を吐き出しながら男は言う。ぬいぐるみが煙にまみれ、ほんの一瞬姿がかすむ。
男の煙草の銘柄は、ラークである。それも十二ミリのロング。煙草にはちっとも興味のない青年にはそれが「オッサンくさい」という認識のあるものだとは知らないから、ただ(赤か、なんとなくオジサンには合うかもな)程度にしか思わなかった。
「喫煙者はいろいろ肩身がせまいものだろう。健康ブームだかしらんが、嫌煙者の主張がまかり通っているし」
「そうですけど、俺はいっつもここにいるので」
「家には帰らないのか?」
煙を吐き出した男は、ぼんやりと天井を見上げる。煙草の先は長い灰になっている。青年が灰皿を差し出すと、男は頭を下げながらトン、と灰を落とす。
「家……、そうか、家かあ。家になんて帰っても誰もいないしね」
「遊んでばっかりいないで、ひとりに決めてしまえばいい」
「いやですよ。ひとりの女にしばられるなんて、まっぴらさ。ぼうやはまだねんねだろうから知らないかもしれんが、女っていうのは、生物学のゲノムなんてもんよりやっかいだ。ゲノムっていうのは端的に言えば、『人間が人間であるための必要な情報』だ。女にはそういう、端的な答えが用意されていない。そこがまたおもしろくて攻略しがいがあるってもんだが、後腐れするもんだ。女は遊び道具みたいなもんさ。けれど、遊び道具ったってぞんざいに扱わないだろう? 熱中しているときはそりゃ大切にするもんさ」
灰皿で短くなった煙草をもみ消し、男は言った。青年は軽蔑するようでも、同調するようでもなく、淡々と言う。
「それをフェミニスト団体の目の前で言ってみてほしいものだ」
「おおこわ。毎日電話にファックス、脅迫文書の嵐でしょうよ」
「この部屋には電話もファックスはおろか、窓すらないようだが」
青年の皮肉に男は「それもそうだ」となんてことないように答えた。
この部屋はひどく地上から隔離されている。地下であるということ、電話やファックスなどの連絡手段がほぼ皆無なこと、男が携帯を持っている様子がないこと。ここまでされると厭世的なものすら感じざるをえない。
「とりあえず、お前が悪い男だということはわかった」
「そりゃ、真剣な女の視点から見たらな。だが、あっちだって遊び相手がほしいだけさ。利害の一致でお互いにちょっと乳繰り合うだけだ」
「わからんな。お前は誰かを愛さないのか?」
「愛?」
ほんの少し批難がましい青年の瞳に、男は半ば嘲るように返した。
「愛していますよ、みんな」
(愛しているからこそ、だ)
その男の結論は、青年を混乱させるのにじゅうぶんだった。