斜陽を背に、青年は例の幅広の道を歩いている。肩からさげているカバンが青年の足の動きを追うように揺れ、それがうっとうしいのかわざわざカバンを手で押さえつけている。
見慣れた金属の門までやってきたとき、青年は門が開いていることに気がついた。
(おかしい)
端的に青年はそう考えた。
昨晩やってきたとき、青年は走っていたうえに辺りは暗かった。今朝もここを出たときは急いでいた。だから、青年が昨日やってきたときからそこが開いていたのか、それとも青年が大学に行っているあいだに開けられたのか。青年は判断しかねる。
研究所の研究データが外部へ漏れれば、悪用される可能性があると言っていたのは男である。しかし、今この研究所は無防備に開け放たれている。
すべりだいをすべりながら、青年の脳裏に一抹の不安がかすめる。
(もしかして、オジサン、いなくなっていないだろうな)
青年が出てから研究所の門が開けられたと仮定すれば、なんらかの理由でここの研究所は遺棄されたとも考えられる。その場合、この建物はある種の産業廃棄物となり、人は近寄ることを許されなくなる。
マットの上に着地した青年は、部屋の電気がついていることを確認してほんの少し安堵の表情を見せる。続いて簡易キッチンから叫び声が響き、青年はますます安堵の色を強くした。
「いっでえ!」
「なにをしているのだ?」
「うわっ、……ぼうやかい。見ての通り、晩メシですよ。腹減っちまって」
男の言うとおり、見るからに男は料理をしている。見慣れた白衣のそでをまくりあげ、包丁とじゃがいもを持っている。
シンクのざるには乱切りのにんじん、コンロでは小さめの鍋がぐつぐつとしらたきを煮ている。
「ひとりで食べるのに作るのか? 出来合いのものにしたほうが楽だろうに」
「だって、どうせぼうやが来るんですもん。肉じゃがはお好きですか?」
「肉じゃが? 食べた記憶がないな」
「はア? 肉じゃがといえばお袋の味の代表格……っと。ぼうやはいないんでしたっけねえ。小学校のころ、給食でも出ませんでしたか?」
「覚えていない」
「おいしいですよ、肉じゃが」
じゃがいもの芽を包丁の刃元でえぐりだし、それをぽいっとシンクの三角コーナーに捨てる。
不器用な手つきでじゃがいもを乱切りにしているところで、しらたきを煮ていた鍋がぐつぐつといいはじめる。
「なんでしらたきを煮ているんだ?」
「アク抜きですよ」
「しらたきにもアクがあるのか?」
「そりゃありますよ。アク抜かないと味がしみなくておいしくないんですよ?」
へえ、と子供のように感心する青年のわきで男はコンロの火をとめ、しらたきを金属のざるに流し、水で冷やす。
「にんじん、こんなに大きく切ったら味がしみこまないんじゃないのか?」
「ええ? 乱切り、知りません?」
「知らん」
男はにんじんをひとつ手にとって、青年に見せる。
「ほら、こうしてななめに切っているから面が大きいでしょう。この面が大きいと熱が通りやすくなって味がしみこみやすくなるんです」
「へえ、信じられんな」
青年の言葉にはさまざまな意味がこもっていた。昨日、ひどい焼きそばをごちそうされたばかりであるというのに、この料理に対する豊富な知識だ。知識だけでは料理はできないものであるということがわかる。
「米とか煮物が好きなんですよ。麺類はさっぱり」
「じゃあ、肉じゃが楽しみにしておく」
「期待してくれてもいいですよ」
(しらたきは麺類ではないのだな)
などと考えながら青年はキッチンから離れ、バーナーやドリッパーが置いてある長机の前に立つ。
ドリッパーにインスタントコーヒーの三角パックを放り込み、水の入ったフラスコをジッと見つめる。鉄製の三脚に金網が乗っていて、そこにフラスコがデンとあり、その下にバーナーがある。
(俺、バーナーのつけかた知らない。理科でやらなかったっけか)
義務教育中に、理科の実験でガスバーナーに火をつけることはいくらかあるはずだ。けれど、青年はつけかたを知らない。それが青年は不思議でならなかった。
結局コーヒーは諦め、あいかわらずライトアップされている台へ近寄った。
(あのホルマリン漬けはもうないのか)
台の下を覗き込み、台の上の細かい部品をひとつひとつ眺めた。しかし青年は台の端に転がる、細い針を見つけて体を固めた。
(針……、針、針は、きらい。でもどうして? どうして針が嫌いなんだろう)
それから右手の奥にある本棚を眺めることにした。
本棚にはタイトルを見ただけでめまいを起こしそうなほど、小難しい言葉がずらりと並んでいる。左上から順々に本を眺めていた青年は、どれにも興味が湧かないのかなかなか手を出さない。
(生体錬金術、意識と脳、臨床心理、3D世界と平面世界の脳、シグナル伝達、ゲノム界、記憶と脳、視覚映像と心理映像、眼球伝達、禁煙はつらくない……、なんのこっちゃ。ジャンルがごちゃごちゃだ)
タイトルを読んだだけですっかり満足してしまったのか、青年は比較的読みやすそうな文庫を一冊手にとった。非常に薄いそれは、百ページ満たすかどうかほどである。
(優しい旅人、童話か)
専門書ばかり並ぶそこに童話の薄い本があるというのも異質なものである。
ページをめくり、青年はゆっくりと読みはじめた。
(旅人は、風の向くままに旅をしていた。彼は名も知れないただの人である。行く先々で彼は困っている人々を助け、その礼として一夜の宿をもらうなどして旅を続けている。何年も旅人が旅を続けていると、いつしか旅人のことが尾ひれをつけた噂として広まっていった。『彼に一晩の宿さえ与えれば、助けてくれるのだ』しだいに、旅人が町へ向かうと、とても彼ひとりでは解決できないような無理難題を頼まれ、それができないとなると追い出されるという状況が生まれてくる。旅人は疲れきっていた。ろくな寝床にもありつけず、おぼつかない足取りで山道を登っていくと、道端で座り込んで泣いている女の子がひとりいた。「足をくじいてしまったの」少女はそう言い、この辺りには恐ろしいケモノが出ると泣き出してしまった。旅人は少女をおぶって山道を下る。「お兄さん、噂の旅人さんね」少女は屈託なく笑い、旅人にお礼を言う。旅人はこの礼に一晩宿をいただけないか、と言おうとするが、言えなかった。すると少女のほうから「お礼に一晩、どうぞ」と、旅人を家へ招き入れた。少女の家には少女の両親がいた。両親は少女を助けてくれたと大いに旅人に感謝し、快く旅人を迎え入れた。――夜、旅人が眠りにつこうとしたところで、少女が飛び込んできた。「大変、お父さんがまきを割ろうとして自分の手を切り落としてしまった」旅人は少し躊躇したが、自らの片手を差し出した。片手のみならば多少は不便だが、問題はない。少女は涙ながらに感謝する。それから床につき、痛みにうめきながら旅人が寝返りをうったところで今度は母親が飛び込んできた。「どうしましょう、彼がまきを火にくべていたら、小さな火がはねて目に入ってしまった」旅人は少しのあいだ悩んでから、自らの両目を差し出した。目は見えなくとも鼻や耳がある。母親は平身低頭に感謝し、去ってゆく。旅人は閉じても閉じなくても変わらない視界のまま眠りについた。しかしそれから間もないころ、父親が飛び込んできた。「ああ、旅人さん、大変だ。娘が足を自分の手で切り落としてしまった」父親の涙ながらの言葉に、旅人は大いに悩む。目も手もない。足までなくなってしまったら、旅人は旅を続けられない。しかし、旅人は「自分はもうじゅうぶんに生きました。どうぞ、この足を」と、とうとう足まで差し出してしまった。父親は、すでになくなってしまった旅人の手を、旅人の手をつなぎあわせた手で掴み感謝する。――旅人は朝が来たことがわからなかった。目を閉じても開いても、真っ暗闇のままだからだ。旅人は一人で食事を取ることができなくなってしまった。手をなくしてしまったからだ。旅人は歩くことができなくなってしまった。足をもすでになくしてしまったからだ。旅人は思考することができなくなっている。少女たちは、たんなる旅人の幻だったからだ。たびびとは……)
そこまで読んだところで、青年はまぶたの重みと戦いはじめた。
こっくりこっくりと揺れる首に、力が抜けてゆく体。本をバサリと取り落としたところで、青年は驚いて目を覚ました。
「なあに船を漕いでるんですか。できましたよ、肉じゃが」
男は皿に盛った肉じゃがを二皿盛ってきて、長机に置きながら言う。
「む……、むう。うん。食べる」
「それ、読んでたんですか?」
青年の足元に落ちた本を目ざとく見つけた男はいぶかしげに問いかける。慌てて本を拾い上げ、埃をはたきながら青年はぺらぺらとそれをめくる。
「勝手にすまない。しかし、童話というには、なんだか文体が堅苦しい感じがする」
「いえどうぞどうぞ。それ童話じゃないですよ多分。何年も昔に、ケータイ小説って流行ったでしょう。その残骸あたりだと思います」
「ああ……、そんなものが流行った時代もあったらしいな。どうりで、素人くさいと思った」
本棚に文庫を戻し、青年は長机に近寄った。
肉じゃがからは湯気が立ち、心地よい香りが充満する。
「これが肉じゃがか」
「どうぞ」