目を覚ました男は、パイプ椅子に座ったまま居眠りするように眠っている青年を見つけるなり奇妙そうな顔をした。そして惰性に起き上がり、青年に近寄って彼を肩に担ぐ。担がれている青年は目を覚ます気配がない。
 簡易キッチンを越えた奥に仮眠所がある。男はたびたび(気味の悪い間取りだ)と感想をもらすが、間取りは変わらずキッチンの奥だ。
 青年を薄い敷布団に転がし、その上から大雑把に掛け布団で覆う。敷布団はよくある、万年床である。掛け布団もいつから洗濯していないのか、少し汚れが目立っている。布団を掛けてあげるほうがよいのか、それとも掛けないほうが親切というものなのか。男はそのはざまに揺れ動いているようだ。
(ま、風邪でも引かれちゃたまらん)
 結局、掛け布団はそのままに、男は青年の隣に座り、寝顔を眺めはじめる。
 上からのアングルで青年の寝顔を見ると、まつげの長さと、鼻筋の美しさがよく際立つ。吐息が薄く、呼吸をしているのか、生きているのか、死んでいるのか、それがあいまいになる。
 日の入らないその仮眠所で男は青年の髪を指先に絡ませる。
(ぼうやだ。あのかわいくないガキだ。十年経ったのに、それでも、言葉遣いが年不相応のよう)
 するりと髪は男の年を感じさせる手をすり抜ける。
 それと同時に青年はゆっくりと目を覚ます。

「オジサン……、やっぱり、そういう趣味だったのか」
「……あのねえ、開口一番にそれですか。お布団に運んだっていうのに」
「そんなこと頼んでいないぞ」

 むくりと起き上がり、目をこすった青年は憎まれ口をたたく。男はその憎まれ口すらかわいらしいと微笑み、仮眠所を出る。

「シャワー、使っていいか? 昨日、オジサンは先に寝てしまった」
「ああ、どうぞどうぞ。気にしないでくださいよ、そんなこと」

 男を追うように仮眠所を出た青年は、男にシャワー室の使用の許可をもらい、シャワー室にこもった。冷たい水がお湯になるのを待っている間、青年は唐突に目が冴えた。
(そういえば、ここのシャワー、使った記憶があるような気がする)
 まばたきを忘れているかのように、シャワーから飛び出す水の粒を見つめ、響くしたたる水音で耳を満たす。足元を濡らすひんやりとした水に、青年はハッとする。
 まだ水は冷たいが、青年はそれで腕を濡らす。
(そうだ、このシャワー室で腕を冷やした。たしか、やけどとかしたはず)
 右の腕、そして“傷ひとつない”美しい指先を見つめ、青年は顔を青くする。
(ない?)
 青年の指先は象牙のようになめらかで、しかし男性的なラインを残している。やけど痕がないこともだが、勉強ばかりしていたはずの筆まめもない。
 驚愕の表情に彩られたまま、青年は勢いのままにシャワー室を飛び出し、男に詰め寄った。

「わっ、ちょ、服を着ましょうよ、服を」
「俺っ、俺、昔、ここでやけどをしたよな? ほら、ここ、この指先にひどいやけどをして」
「え?……ああ、しましたね。おったまげましたもんアレには」
「やけどって痕が残るものだろう? 痕が消えてるんだ」

 青年の剣幕に押されつつも、突き出された指をジッと見た男は、眉間にしわを寄せながら口をまごつかせる。その男の対応に青年は鼓動が早まっていることに気付く。
 男は青年の象牙のような指を手に取り、二度ほど優しく叩く。

「思ったよりも軽いやけどだったし、痕にならなかっただけでしょう。指先には多くの神経が通っているから、そういう痕って残りにくいんじゃないんですかね。今、たまたま思い出して見てみたら消えていたってことでしょう」
「でも、筆まめもなくなってる」
「筆まめなんて、ペンを握ってるときは特にひどいように思いますけれど、改めて見るとなんてことないものです。考えすぎですよ」

 根拠のない仮定ではあるが、男の言葉を聞いているうちに青年は徐々にそんな気になってきてしまい、ついには「そうか、そうかもしれん」と頷いた。
 これが同い年の人間や、平凡な職についている人間に言われたのならば納得はできないだろうが、男は多分野にわたって知識がある(少なくとも青年はそうだと思っている)。だからこそ、たとえめちゃくちゃな論理であろうとこの男に真顔で説明されたのならば、本当にそうなのかもしれないと思いはじめてしまうのも無理はない。
 指先をつまんだり、動かしたりしながら青年は(不思議)と思った。

「それはいいとして、そんなカッコでいると風邪引きますよ」
「む……、ああ、見苦しいものを見せた」
「はあ」

 取り乱すことなくシャワー室に戻っていった青年の背中を見て、男は難しい表情をする。
(やけど、か。適当なこと言ったけど、ほんとに指先の怪我って痕が残りにくいんだろうかねえ?……そんなことないか)
 自らの頬の傷に触れた男は、ため息をついて肩を落とした。
(顔面も、指先に負けず劣らず様々な神経が通っているに違いない。特に、頭――脳が近いぶんに。あーあ、この顔の傷、消えないかな。……『傷は男の勲章』だったな。やれやれ)
 男がひとりで百面相をしているあいだに、青年はすっかりシャワーを浴び終え、タオルでゴシゴシと頭を拭きながら出てくる。

「なにか食べますか?」
「いや、空いてない」
「朝は食べないと、一日持たないと思うんですけれどねえ」

 半分くらい、それは男の独り言になった。
 青年はまるで聞いていないと言うように椅子に座り、床に転がっていたぬいぐるみを抱え上げた。男が寝ているときに落としたのだろう。その鼻を押してみるやら引っぱるやらしてかわいらしい抵抗を見せる(つまり、朝ごはんは食べない、という)。
 自分の独り言に苦笑した男はキッチンへ向かい冷蔵庫を探る。
 もやもやと空中に男の顔を思い浮かべていたらしい青年は何気なしに

「顔、傷ができているな」

 と言った。
 冷蔵庫を探る手を止め、ドアの上にひょっこりと顔を出した男は自分の頬を指差した。

「これっすか?」
「そう。俺の記憶にはそんな傷、なかったと思うが」

 男は大げさに腕を組んでうなってみせる。

「いやあねえ、ちょっと十年の間にね。俺も若かったんで、修羅場もくぐり抜けてきたんですよ」
「女か」
「ええ、そうです」

 語尾にハートがつきそうなほど嬉しげに肯定する男が、青年はどうにも解せなかったようだ(女につけられた傷をどうしてそうも嬉しそうに言えるのか、青年にはわからない)。
 男は冷蔵庫からしけったひらべったいセンベイを出し、いまいち元気のない音を立てて食べはじめる。

「顔に傷をつけられるなんて、そうとう怨まれたんだろうな」
「ええ、すっごく。ま、俺に言わせれば『お前が言うな』って感じですけど」
「男の言い分だろ、どうせ」
「いやいや、権利ばかり主張して、義務を果たさないんですもの。俺ばっかり責めるのはおかしい話です」

 口からこぼれたセンベイのカスを慌ててキャッチし、不満を節々ににじませて男は言う。
 青年はというと、成り行きを知らないものだからなにも言えず、かといって他人の色沙汰に首をつっこむというのも無粋である、と男の話に耳をかたむける。

「難しいな、女って」
「ぼうやは好きな子とかいたことなかったんですかい」
「いないな。どいつもこいつも鼻を垂らしたねんねだ。興味も湧かん」
「こりゃ手厳しい。ま、ぼうやの外見だと、女のほうが逆に気後れしちゃうかもしれませんな」

 青年は整った顔立ちである。鼻筋が通っているだとか、まつげが濃いだとか、唇の形がよいやら、左右対称の切れ長の目、おまけに黒目がちな双眸などもあるが、それらが調和の取れた配置にあるのだから申し分ない。いくら個々のパーツが優れていても、福笑いのようにぐちゃぐちゃとまとまりがなければ意味がないのである。
 長机に写るぼやけた自分の顔を見ながら、青年は首をかしげる。
(ふうん、外見はいい方なのか。……わからん、『俺ってこんな顔だったんだ』くらいにしか思えん)
 自分の顔に頓着がないというのもまた珍しい話である。
 青年は見慣れないものを見るように自分の顔をじろじろと見ていたが、すぐに飽きてしまったらしい。

「あ、大学行かなきゃ」

 その一言に男はきょとんとした。