「とりあえず、おつまみスルメでも。カルパスもありますんで」

 男は未開封のスルメとカルパスの袋を青年に手渡し、苦笑いを浮かべる。それを受け取った青年はどちらを食べようか、見比べる。何度目かの往復の後、ようやく心を決めたらしくスルメの袋を開けた。大きなスルメを力いっぱいにちぎり、もそもそとはじっこを噛み続ける(スルメは硬いものだ)。
 ガタガタとキッチンで音がする。コンロに火をつける音と、ベリベリと包装紙を破く音もする。

「ろくなモンありませんよ、見ての通り無精者ですから」
「べつに。期待してないから無理はしなくていい」
「そーおですかあ」

 スルメをかじりながら、青年は長机にもたれかかる。
(オジサンがオジサンになった。年をとった。俺も大人になった。なんか、変な感じがする。時間の流れって考えてみると奇妙だな)
 キッチンでは男が包丁をにぎり、ありあわせの野菜をまばらな大きさに切り、フライパンに放り込んでいる。野菜を炒める順番などちっとも気にしていないようだ。それから黄色がかった麺を放り込み、適当にかき混ぜ、最後にソースを注ぐ。それを皿についで、割り箸を二つ発掘し、男はキッチンから出た。

「いやあ、お米ってほっとくと溶けるんですねえ。米がないので焼きそばですけど、平気ですか?」
「平気」
「ま、味は置いといて、とりあえず腹のたしにはなるでしょう」

 青年はパキン、と割り箸を割る。しかし、うまくいかずにバランスが悪くなる。気に食わないという表情を見せるが、どれだけ割り箸に不満を送ったところでバランスは悪いままだ。
 野菜と麺を一緒に口にいれ、咀嚼したとたん、青年は大きくむせた。

「生! 生! 味濃い!」
「生野菜を食べる人もいますし、問題ないでしょう」
「……へたくそ」
「料理なんてしませんもん。さすがにお客人にインスタントラーメンはまずいと思って、サビてきていた包丁を握った俺をむしろ褒めてほしいくらいです」

 青年は思い切り嫌そうな顔をするが、それ以降は文句も言わずに生の野菜と味の濃い麺をもっそりと食べる。一応は青年が作ってもらった側なので、そう文句ばかり言うわけにはいかないのだ。
 ビール缶のプルタブをカチリと開け、男は缶をかたむける。

「その腹のたるみはビール腹か」
「ははっ、まっ、飲んでなきゃやってらんないってヤツですよ」
「仕事は今でも同じなのか?」
「いいえ、今は別の研究です。前の仕事はなくなっちゃったんでねえ」

 男は缶を置き、焼きそばを食べはじめる。どうやら自分でもあまり美味しいとは感じなかったのか、眉間にしわをよせ、ため息をつく。けれど自分に文句を言うのもむなしいのか、何も言わずに食べ続ける。
 いち早く食べ終えた青年は改めて部屋中を見渡した。
(やっぱり違う)

「ずいぶん、雰囲気が変わったな」
「おや、ちゃんと覚えているんですね。そう、変わりましたよ」
「あの大きなホルマリンは?」

 右の壁際にどっかりと鎮座するそのホルマリンを指差す。中を満たす液体はうっすらと水色がかり、下から時折上ってゆく白い水泡とのコントラストが美しい。中になにかが入っていたことは明確であるが、青年はそれを知る術を持たない。
 男は青年を探るように、一瞬だけ視線を合わせたがすぐに目をそらした。

「ちょっと前まで実験に使ってたんですけどねえ、もう場所取るだけで、さっさと処分しちゃおうと思ってるんですけど」
「前に言っていた、依頼のあれが進んだのか?」
「依頼……? ああ、あれですか。まあ、あれの延長線上ですね」

 言葉をにごす男を青年はいぶかしんだが、すぐに(俺は部外者だからな)と思い直した。
 男はビールを煽り、空になった缶を長机の上に置きっぱなしにしたままキッチンへ向かう。冷蔵庫から二本目の缶を取り出し、その場でプルタブをひねった。

「酒ってうまいもんか?」
「どうでしょうねえ、好みの問題でしょ。まあ、こんな安モンの缶ビールはうまくないもんでしょうな」

 青年の素朴な疑問に、男は不親切な答えを返す。だが男の言うとおり、嗜好の問題であるからそう答えざるをえないのだ。

「酒は肝臓と頭をばかにする」
「いっそばかになりたいくらいですよー。もう、頭良すぎちゃって」
「酔っているのか?」

 少し陽気な声のトーンに、青年は眉をしかめる。
 男は缶を長机に置き、パイプ椅子に腰かける。男を目の前にした青年はじっとりとした半ば恨みがましい目つきで男と缶を見比べる。

「さあねえ、酔ってるんでしょうか」
「そんなことは知らん。オジサンは煙草といい酒といい、体をばかにするものばっかり好きだな。それが大人のたしなみ、ってやつなのか?」
「どーおしてだろうねえ。好き、というよりも習慣って感じです。どうです、一口飲んでみますか? 意外とハマるかも」
「いらん」

 男の誘いを一蹴し、青年はコーヒーを一口ころがす。突っぱねられた男はというと、長机の隅にぞんざいに置かれたぬいぐるみに手をのばしている。しかしほんのわずかに届かないのか、男はプルプルと震え、手をこまねいている。見かねた青年が立ち上がり、男にぬいぐるみを手渡した。
 男はぬいぐるみを受け取るとそれを高々に持ち上げ、ぼんやりと眺める。

「十年、か……。長かったような短かったような」
「オジサンにもなれば、十年も一年もたいした変わりはないのでは?」
「そうですね。外部から受けるメンタル的な刺激というものが少なくなってきますから。あっちゅうまに一年も二年もすぎるってやつですよ。たいしてなにかを覚えているわけでもなく、あれっ、もう一年か、みたいなねえ」

 自分が喋るテンポにあわせ、ぬいぐるみを揺らせる。それを(小さな子供に見せる人形劇のようだ)と青年は感じたが、あえてそこには触れなかった(今の話題とはかけ離れている)。
 男はうつらうつらとまどろみはじめている。自分の行動をほとんど意識していないのだろう。

「俺も、いつのまにか十年が経っていた、という感じだ」
「……」
「たいしたことは覚えていないし、どういうわけかここのことも忘れていた。時間というものは本当に不思議だな」

 青年は男に話を振るが、男は答えない。いぶかしんだ青年が長机越しに男を覗き込むと、男はぬいぐるみを顔にかぶせ、静かに胸を上下させていた。

「寝たのか……。独り言になってしまったな」

 それもまた青年の独り言である。
 ぬいぐるみに隠された男の表情は青年には見えない。
(そう、もう十年だ。ぼうやは二十歳。俺は……いくつだったかなあ。俺も二十歳過ぎくらいまでは数えていたと思うんだが、もう忘れちまった。三十だっけ、四十だっけ)
 タヌキ寝入りをしている男は、青年に悟られないよう身じろぎひとつしない。いや、そう意識しているのではなく、男は本当にまどろみはじめているのかもしれない。
(『いつのまにか十年』……か。いや、長かったよ。本当はとても長かった。いつのまにかなんて言葉じゃ、あまりにかわいそうなほどに)
 男が寝ていると理解している青年は静かにしている。まだ眠気はないのか、冴えた目で周囲を見渡したり、男を眺めたりと退屈そうに時間をつぶす。
(もういいんだ。結局、十年は経ったのだから。長い短いは主観の問題だ。客観的に見れば、一秒はやっぱり一秒だし、一日は二十四時間。一年は三百六十五日だ。だが、俺とぼうやの時間の流れは確実に違うものだ)
 青年は長机の上の缶ビールに手を伸ばした。男が飲みかけてそのままのもので、中身はまだ半分近く残っている。それを、見たこともないゲテモノ料理に接するようにニオイをあらゆる角度から嗅ぎ、ほんの少し舌をつける。それではわからなかったのか、青年は缶をかたむけてビールを口に含んだ。

「まず」

 顔をしかめ、舌を出して外気に触れさせる。のどに違和感があるのかのどの辺りをつまみ、なんとか不快感を取り去ろうとするが無駄である。
 音だけでその様子を想像した男は、ぬいぐるみの向こうで薄く笑った。
(大人はなんでこんなものを好んで飲むんだか。理解できんな)
 青年は顔中に『まずい』と浮かべながらもそのビールをちびちびと飲んでいる。
(ああ、また、春がやってくる)