(なんだっけ、この、ぬいぐるみ)
 鼻筋が通り、形の良い唇とまつげの濃い細面が印象深い青年は、深い栗色の髪をかき上げながらベッドサイドに置かれたぬいぐるみを手に取った。愛嬌のある顔立ちのそれは、笑顔で青年を見つめている。
 月が昇りはじめた夜半、虫の音がぽつぽつと響く。季節は春の初めである。
 ぬいぐるみを見つめながら、彼は首をかしげ、ぽいっとぬいぐるみをベッドへ放った。
(見たことがあるような、ないような)
 立ち上がり電気を消し、部屋を出る。階段をテンポ良く降りると、まったく電気のついていない暗い廊下がある。慣れたように闇の中を歩み、リビングの電気をつける。まばゆい光が数度点滅し、部屋を照らす。
 青年はソファへ腰掛け、リモコンを探し、テレビをつける。時間帯的にちょうど芸能ニュースの時間である。興味がない青年はソファから立ち上がり、キッチンへ向かう。
(なんもない。そういえば、買いに行った覚えがない。あるわけがない)
 冷蔵庫を覗きこみ、新品と言っても差し支えないほどになにも入っていないきれいな様子に、青年はため息をつく。
 食器棚からコップを取り出し、水道のバルブをひねりコップを待機させる。やや間を置いて水が出る。それを一気に飲んだ青年は口元をぬぐいながら、キッチンのあちこちを探りはじめた。
(なにかひとつくらい、買い置きしてあってもいいんだがな。ちっとも覚えとらん)
 とうとう床下収納庫まで開け、なにもないことを確認した青年はがっくりと肩を落とし、落胆した。
(コーヒーでも飲んで、ガマンするか)
 水よりも、味のあるものがいい。それが青年の思考回路なのだろう。
 しかし肝心のコーヒー豆やら、インスタントコーヒーやらがない。あるのは水道水のみである。青年はもう一杯水を飲んだ。
(……コーヒー?)
 キッチンの明かりを消し、リビングに戻るころには芸能ニュースはすでに終わり、スポーツニュースへと変わっていた。これもまた青年は興味がない。

「へえ、あんな野球のグループ、あったっけか」

 画面では紫色のユニフォームを着た野球選手たちが抱き合い、胴上げをしている。右上の隅には『優勝』の二文字がある。青年の知らぬ間に野球があり、このチームが優勝したのである。
 青年は特に喜びも悔しがりもせず(優勝セール、どこがやるんだろう)などと考えている。
 それからテレビはメガネをかけた若い男性と、主張しない程度の上品な化粧をした女性のニュースキャスターが映る。双方笑顔で「おめでとうございます」と言い、次のニュースへ変わる。
(……メガネ)
 スポーツニュースが終わると、ニュースは今までのニュースを簡単にまとめたものへと変わる。殺人事件や窃盗などの物騒な事件が続き、科学に関してのニュース、長寿記録を更新している人、タレントの結婚、そして最後にどこぞのチームが優勝という順である。
 青年が興味を示したのは、科学に関してのニュースだった。その内容は、『太陽光発電の再実用化』である。
(……あ! オジサン!)
 テレビをつけっぱなしにしたまま、青年はリビングを飛び出して慌しく二階へかけ上がる。階段の電気をつけていなかったせいか、青年は二度三度階段につまづいた。
 部屋に飛び込み、電気を乱暴につけ、ベッドの上で寝転がっているぬいぐるみを抱える。そしてその鼻を指先で強く押す。ぬいぐるみの表情は困ったような、怒ったような、それでいて悲しげな表情になる。
(島左近、オジサン。なんで忘れていたんだろう!)
 ぬいぐるみを抱えたまま、青年は部屋を飛び出した。



 変わらず幅広の道を、青年はわき目もふらずに走っている。やや冷たい風が吹く夜だというのに青年はうっすらと汗をにじませている。
 空には星がいくつか浮かび上がっているだけだ。虫の音は聞こえない。
 フェンスの向こうにはもうもうと草原が広がっている。風が吹くと、それらは一様に揺れ、穏やかな波を見せる。
 門を目の前にした青年は迷わず塀沿いにかける。暗いため足元が危なげだが、青年は確実に地を踏みしめる。
(十一、十二、十三!)
 よほど注意して見なければ気付かないほど細い線が、四角くそこを切り取っている。青年は迷わずそれを足で押し、その中へ飛び込んだ。
(つるつる、つるつる。なんだかこの穴、狭いなあ)
 すべり台状のそれをすべり降りながら、青年は抱えていたぬいぐるみと目を合わせる。頬はうっすらと紅潮し、鼻の頭には汗がたまっている。それを拭いとるころ、青年はマットへ着地する。
(あれ)
 部屋は青年の記憶と少し違うようである。
 右の壁際にあった野暮ったいコンピュータとスパゲティはいなくなり、代わりに大きなホルマリンとそれを満たす液体、その隣には大きな薄型の液晶。左の壁側にはライトアップされた手術に使われそうな台と、細かい部品たち。タンスの引き出しはどれも飛び出していて、中身がテロンと姿を見せている。ゴミ袋は数えるのも億劫なほど積み重なり、ゴミ箱からはゴミが溢れている。部屋の中心には長机がひとつ、その上に煙草の吸殻がびっしりと並ぶ灰皿、湯気の立っているカップがひとつずつ。奥には青年よりも背が高い本棚があり、大きさもまばらな本がびっしりとつまっていた(それでも入りきらないのか、本棚の前には本が山積みになっている)。
 シャワー室から水音がする。ドアが閉まっており、誰かが使用しているということは容易に察することができる。
(オジサン、じゃないのか?)
 不安げにマットに座った青年は、胸を高鳴らせながらシャワーの水音を聞いている。
(そうだ、ずっとここにいるという確証はない。それに、いたとしてもずっと来ていなかったのだから俺のことを覚えているとも限らない)
 ぬいぐるみの毛を指先でくるくるといじりながら、青年はそわそわと部屋中を見渡した。煙草のヤニで黄色っぽくなっている壁や天井、ほこりがたまっている床、あちこちに散乱しているゴミ。それは青年のよく知っているものだ。
 やがてシャワーの水音が止み、足音と布の擦れる音がする。
 シャワー室のドアが開いた青年の鼓動は頂点に達した。

「……おや、いらっしゃい」
「オジサンが、本当にオジサンになってる」

 シャワー室から出てきた男は、黒く長い髪から水を滴らせ、ジーパンにTシャツというラフな格好で現れた。
 青年の知っているオジサン、とは少々姿が変わったが、たしかに青年の知る男である。
 もはや『青年』というには年を食いすぎ、本当に『オジサン』といった風貌となっていた。目元には小さなしわが刻まれ、薄かったもみ上げは濃くなり、声は貫禄を増している。男から見て左側の頬には、鼻にむかって斜めの傷跡が一本できている。髪も伸び、肩甲骨はとうに通過してしまった。
 男は、驚きと共に、なにかしらの感情を顔に浮かべる。だがそれはひどくあいまいなものであり、男も青年もおそらく気付いていないのだろう。やがて男は青年に微笑みかける。

「ぼうやも、ぼうやではないですね」

 彼を『ぼうや』と呼ぶには少し大人すぎる。
 青年は自然な笑みを浮かべ、男に向かってぬいぐるみを突き出した。男は一瞬目を見開き、また笑顔を浮かべる。

「大人になったのだ。ええと、二十歳だ」
「そりゃよかった。もう十年も経つんですねえ。あのときはぼうや、こーんなに小さかったのに」

 親指と人差し指で示されたサイズに、青年は「そんなばかな」と言い、男は肩を揺らして笑った。

「腹が減った。コーヒーも飲みたい。買い置きし忘れていたみたいで、冷蔵庫になんもなかったのだ。それでテレビを見ていたら、なんとなくここを思い出した。だから暇つぶしに遊びにきた」
「そんな、汗を浮かべた姿で言われても説得力ありませんで。なんか食いますか?」
「食べる」

 男はひとまずドリッパーからカップにコーヒーを注ぎ、青年に差し出した。青年は慎重に冷ましながらカップをかたむける。
 青年がコーヒーを飲んでいる間、男は左奥の簡易キッチンで小さな冷蔵庫の中を覗きこんでいる。中にはビールとそのおつまみ、カチカチに固まったおにぎりがひとつ。米の入ったタッパを覗き込んだ男は、顔をしかめた。米はドロドロに溶け、茶色く変色していたのだ。