ビービーとけたたましく鳴る機械にかけ寄った青年は、普段通りキーボードを打ちながら、ディスプレイをにらみつける。波線もいつものようにギザギザの直線になっているが、もうひとつのディスプレイは静かに図形を写したままだ。
 青年の猫背な背中を眺めながら少年はコーヒーを一口舌に転がす。

「オジサンって、言うことが二転三転するよな」
「そーおですか?」
「というか、わざと混乱するように仕向けている感じがする。クラッキング対策、レーザー出力のクラッキング対策、レーザーの座標指定。叩けば叩くほどほこりがでてくる」
「そりゃ、ぼうやがいろいろ聞いてくるから聞かれたことに答えてるだけですよ。1プラス1イコール2、って簡単に答えられる仕事でもないですし」

 あいかわらずディスプレイに顔を近づけ、具合を見ながらキーボードを打つ青年は、なんてことないように答える。会話をしていようが、青年は難なく仕事をこなせる。それがプロというものだ。少年も関心するように青年の手元を見つめる。

「守秘義務がどうこう言いながら、俺に話してるし」
「友達を信頼してるってことですよ」

 青年の口説き文句に少年は言葉を失った。ぽかんと口を開けて、青年のつややかな後ろ髪を目で追った。
 答えがないこともさして珍しいことではないのか、青年はマイペースに自分の仕事に没頭する。少年もまた、青年の髪を目で追うことに没頭している。
(友達、そうか、友達なのか)

「友達って、変な感じだな。なんか、いろいろ喋ってみたくなる」

 機械と同化してしまうのではないか、というほどディスプレイに顔を寄せ、すばやくタイピングしている青年は少年の言葉を聞いていなかったらしい。しかし少年も少年で、青年に言ったわけではなく独り言のようなものだった。
 しばらくすると機械の耳障りな音も止み、青年はようやくディスプレイから顔を離し大きく伸びをした。

「よっし、しゅーりょー」
「クラッカーか?」
「そうそう。久しぶりのクラッカーさんですよ。国籍はどうやら某国土の広い国、のようですねえ。そんなに天然資源が尽きちゃって悔しかったかっての」

 クラッカーを鼻で笑い、青年はコーヒーを一気に飲み干した。それから首を動かし、コキコキと骨の音を鳴らす。手首を振っても、パキパキと骨の音が鳴る。

「波線が出力で、クラッカーがそっちにいったらビービーなるんだな。もうひとつのほうは……、座標とやらか?」
「よく観察されてますね。波線のほうは出力を司っているコンピュータに異常があったら振れるようになってるのでねえ。今回あちらさんは座標のほういじくりたかったみたいですけど。ま、残念、ってトコですな」

 勝ち誇った表情でディスプレイを流し目に見て、青年は皮肉めいた片笑いを浮かべる。今まで、クラッカーが来たとしても無言でひとり仕事をこなすだけで、少年にこうして内容を喋ることも、自分の功績に満足した様子を見せることもなかった。終わってしまったらすぐに忘れてしまう。青年はだいたい、そういうシステムであった。
 初めて見せる青年の一面に、少年は目をほんの少し見開く。

「いろいろ教えてくれるんだな」
「友達にはいろいろ喋りたくなるんでしょう?」

 先ほどの少年の独り言を、青年は聞いていないように見せかけて聞いていたようである。少年は恥ずかしげに視線をそらし、床に落ちている煙草のケースに視点を定める。

「ふうん。勝手に喋ってればいい。俺は喋るようなことはなにもないからな」

 素直にならない少年は、つんとして青年を突き放すような態度を見せる。
 青年は「おやおや」と呟きながら立ち上がり、長机の脇と通り抜け、タンスの前に立つ。それからタンスの引き出しを上から順々に開け、中をごそごそとまさぐって首をかしげている。少年は青年がまたタンスの中身をぶちまけないかとハラハラしている。

「お、あったあった。ぼうや、これあげる」
「えあっ」

 目当てのものを引っ張りだした青年は、少年がそれが何であるか視認するよりも早く少年に向かってそれを投げつける。少年は何が飛んできているのか考える暇もなく、それを胸に抱くような形で受け取った。
 少年が受け取ったものは、いつぞやか少年が「いらない」と突っぱねたぬいぐるみである。いらないと言ったものを再度あげると言われても、困るのである。

「これは、いらないって」
「なになに。俺はここにしかいられないし、さみしくなったら話かけてやってくださいよ」
「別に、オジサンがいなくたってさみしくなんか」

 ぬいぐるみを青年めがけ、思いきり投げつける。受け取った青年は、弧を描かせてぬいぐるみを少年のもとへ向かわせる。

「だって、お家に帰ってもひとりなんでしょ? ならこれをオジサンと思って」
「いらないものはいらんっ」

 同じ問答と行動をくり返し続け、とうとう少年が根負けした。少年のランドセルからぬいぐるみがひょっこり顔を出している。それを心底不愉快そうに少年は見つめ、青年はニコニコと絶え間ない笑みを浮かべる。
 少年がここまで徹底してぬいぐるみを嫌がるのは、もはや意地くらいが理由だろう。どうしても一度拒んでしまうと、受け取りにくいものがある。だから少年は自分の芯を守るために、もらったあともいやな顔をしていなくてはならない。

「ひとりでも平気なのだ。こんなぬいぐるみあってもなくても別になにも変わらないし」
「平気なわけないじゃないですか。だってさみしいもんですよ、ひとりって。その証拠にぼうやはまっすぐ家に帰らないでここへ来るじゃないですか」
「ふん。ここを見つける前はまっすぐ家に帰っていた」

 ぬいぐるみを親の仇とでも言うようににらみつける。ぬいぐるみは愛嬌のある笑顔のままである。

「ま、かわいがってやってくださいよ」
「さあな」

 少年はそっけなく答え、ぬいぐるみの鼻をぐりぐりと指先で押しつける。ぬいぐるみの表情は不愉快そうな具合を見せているようになる。
(別にひとりだって、ひとりだって、ひとりが普通じゃないのか? 人はひとりでは生きてゆけないと誰かが言った。けれど、人はひとりではないか、こんなにもひとり。感情を共有することも、記憶を共有することもできない。ひとつになることだってできない。ひとりではないか。この部屋にふたりいるとしても、俺もオジサンもひとりだ。ほら、離れてゆく)
 立ち上がった青年は開けっ放しだったタンスの引き出しをおさめ、床に落ちていた煙草のケースをゴミ箱へ向かって投げる。しかしケースはゴミ箱の口にあたって、からんと床に落下した。

「ぼうやを見ていると、季節ってものを思い出す」

 煙草のケースを拾い上げ、わざわざゴミ箱から離れてまた投げる。

「今日は涼しい日なのか? 長袖だな」
「くもりで日差しがないから」

 常に一定の温度に保たれているこの部屋で、青年はいつも同じ格好をしている。滅多に外へ出ないのならば、季節どころか日の感覚すら危ういものなのだろう。

「久しぶりに、外にでも出てみっかなあ」

 ゴミ箱に食べられた煙草のケースを確認し、青年は大きなあくびをしながら呟いた。それは少年の答えを待っているものではなかったので、少年は好きにすればと言わんばかりにぬいぐるみをいじめている。
 青年は有言実行だ。ほんの数秒考えただけで決意したらしい。煙草に火をつけながら、外へ続く階段を上っていった。
(ああ、仕事なんかほっぽって、好きなことをしていたい。でも、そうはいかないんだなあ)
 おそらく青年は少し疲れすぎていたのだろう。少年もそう感じたから、青年を引き止めることはしなかった。
(ひとりだけれど、ひとりじゃないのかもしれない。オジサンはひとりで外に出たけれど、俺は追いかけなかった)

「難しいな、オジサン」

 ぬいぐるみを持ち上げ、少年が首をかしげるのとほぼ同時に機械が音を鳴らす。少年は驚き、階段を見る。青年が戻ってくる様子はない。
 ディスプレイの波線はギザギザと大きく振れ、もうひとつのディスプレイはさまざまな英語が点滅する。少年はディスプレイを覗きこみ、どうしたものかと考える。
(これは、座標がずれている、ってやつだろうな)

「オジサン、どうする」

 ぬいぐるみに話しかける少年だが、答えが返ってこないことはわかっている。青年を呼びに行くが早いか、それとも自然におさまるものなのか、もしくは少年が触れるか。
(確か、オジサンはいつも、こっちとこれのキーを叩いていたけれど……)
 少年は青年と同じようにディスプレイをにらみつける。
 機械の不協和音が少年の心を焦らせた。
 階段を慌しく青年がかけおりてくる音がする。