「私たちが生きるために充分なほどのエネルギーを確保してくれているのだ、あの研究所は。邪魔をしてしまったら、私たちは生きる道を失ってしまう。決して近寄らないように」



(『行くな』と言われたら『行きたくなる』。それが当然のものだと誰かが言っていた。だからそうするべきなのだ。行かせたくなければ、そんな場所なんて無いようにしていればいい)
 小学三年生に満つか否かばかりの少年は、未だに新品のようにきれいなランドセルを肩からさげ、道端の石を蹴り飛ばした。石はカランコロンと地面に二度三度バウンドし、少年は歩いてそれを追いかけてまた蹴り飛ばす。好奇心旺盛のこの年頃の子供に、おとなしく歩くなんてことは無理な相談なのである。少し奇異なのは、この少年が子供らしくムキになってかけ足で追いかけていないということくらいだろう。

「あ」

 同じように石を蹴ったのだが、軌道がそれて、石はフェンスの向こうへ飛んでいってしまった。
 車が三台並んでもまだあまるほど幅のあるアスファルトの道。両端には少年を三人縦に並べてもまだあまる高さのあるフェンス。フェンスの頂点には錆びれた有刺鉄線。フェンスの向こう側には特別な建物や道路もなく、だだっ広い草原が、青々とした草をたなびかせている。道は広く、長い。少年の見据える先には拳ほどの大きさにしか見えない、ドーム状のプラネタリウムのような建物がある。そこまで草原は続いている。
 ひまつぶしを失ってしまった少年は、しかたなくランドセルの脇に提げている体操着入れを振り回したり、叩きながら歩く。
(行くなと言うわりに、警備体制がアホのようにぬるい。『行くな』ではなく『行ってくれ』に訂正するべきだな。中の人にそう告げておこうっと)
 季節は春である。心地よい程度の陽気に照らされ、少年はうっすらと汗をにじませている。
 人っ子ひとりいないと言ってもおかしくないほど、そこは人の気配がない。草原も春だというのに虫っ子一匹もいそうにない。車がたくさん行きかっていてもおかしくない道に、なにかが通りもせず、少年をとがめる人が現れもせず、世界に少年ひとりが取り残されてしまったかのようにすら錯覚させる沈黙がそこにはある。
(でも、見に行ってなにをしよう?)
 ようやく建物が間近の存在になり、少年は足を止める。そして道に書かれた文字をジッと見つめ、首をかしげる。道の真ん中には、色あせたオレンジ色で三角形が建物に向かって描いてある。
 少し悩んでから、少年はまた建物に向かって歩き始める。
(なにもいないのに、なんで標識があるんだ)
 正面には大きな門があり、それは硬く閉ざされている。金属の重厚な輝きににじんだ少年が映る。
 少年の頭の上に、カードの差込口と電卓のように並んだ数字のボタンがある。少年が手をのばせばぎりぎり届くが、少年はそれをしない。
(入れないじゃないか、あほ)
 困り果てた少年は、しばらくうろうろとそこを歩き回り周囲を調べまわった。ランドセルの軋む軽快な音のみが少年の耳に届く。
 門から離れ、塀沿いに上を見上げながら少年は歩いてゆく。思うとおりに事が進まないせいか少年はだんだんと険しい顔つきになる。それでも塀沿いに歩くことはやめない。
 塀もまた金属で、ねずみ色の鈍い光を放っている。
 何事もなく歩いていた少年だったが、足元が突然、落とし穴のようになくなってしまい、歩くことはできなくなった。

「おおっ」

 上ばかり気にして歩いていた少年は、足元の異変に過敏に反応した。
 滑り台のようにつるつるとすべり、落ちてゆく少年は目を丸くして天井を眺める。暴れても擦り傷を増やすだけと考えたようだ。ただひとつ、少年は頭を下にしてすべっていることが気になっているようだけれど、体勢を直すには少しせまいのだ。
 少年が落ちてゆくところは四角い筒のようになっていて、立つには少し無理があるあんばいの坂になっている。例に漏れず、この空間も金属でできている(だからこそ少年はすべっている)。
 つるつるとすべり続けること数十秒、少年は硬いクッションの上に到着した。

「あだっ」

 しゃっくりをするような胸のつまりからか、不明瞭な発音で少年は声をあげ、少しの間はぼんやりとしていた。だが、すぐに飛び起きて左右を見て、目を輝かせる。
 その部屋は奇怪なものにあふれていた。右の壁側には一昔前のデスクトップパソコンのように野暮ったい大きな機械が、長机の上でいくつもチカチカと輝き、画面上には絶え間なく揺れ続ける波線と変わり続ける数字。スパゲティのようにぐるぐると絡みあう配線。左の壁側には手術台のようにライトアップされた台があり、その上にはむき出しの細かい部品と、それに付属するだろう大きな機械がなんの配慮もなく、でんと置いてある。

「ここが研究所!」
「ざーんねん」

 興奮に頬を火照らせ叫んだ少年に水を差す、ささやくような吐息まじりの低い声。ぎくりと体を震わせ、少年は声のしたほうを見る。右の壁側にある多くの機械からひょっこりと大人の男が顔を出す。
 その男はだらしなく着こなした白衣とクラッシュジーンズという奇妙な出で立ちで、顔は少し黒く、シルバーフレームの細身のメガネをかけている。そして、フィルターの茶色い煙草をくわえ、いかにも、という格好だ。

「ここは研究所じゃありませんでした。ぼうや?」

 大人の男とはいえ、まだまだ青年という風貌の彼は、煙草をくゆらせ、ニッと笑う。
 少年は決まりの悪そうな顔をして、その場に棒立ちすることになる。子供からすれば、大人というものはたいてい妙な威圧感をにおわせる存在である。とりわけ少年は今の状態から考え、大人に見つかるのは非常にまずかった。
 青年は唇から煙を吐き出しながら、スパゲティ配線を乗り越え、少年に近寄ってくる。黒く長い髪をたなびかせ、体つきのよい、大きな男である。少年からしたら、少年を二人縦に並べてようやく肩を並べることができそうだ。
 少年に目を合わせるために、少年の目の前にしゃがみこみ、笑顔を崩さないままに問う。

「ぼうや、いくつ?」
「……十」
「小学三年生?」
「……はい」

(笑ったまま聞くなあほう。余計怖いではないか)
 この状況でなければ、少年もはにかみながら青年と交流を深めようとしたかもしれない。それほど青年からは面倒見の良い、優しい近所のお兄さんのような雰囲気が出ているのだ。だが、少年は身じろぎひとつできずに答える。

「名札がないねえ。名前は?」
「名札は……、不審者が子供の名札を見て、名前を知られてしまうから登下校の際は外すように言われていて……。石田三成」
「おや、立派なお名前ではないですか。それに、十歳だっていうのにしっかりしている」

 褒められたことがきっかけなのか、少年の緊張は少しだけ解ける。顔をわずかにほころばせてなにかを言おうとするが、ふと思い出したように口をつぐむ。

「だが、勝手に入ってきちゃ、ダメだろう」
「……ここの警備が悪い」
「はい?」

 怒られたことに対する反抗のように、口をへの字にした少年は次々に喋り始める。

「ここの警備は少し脆弱すぎる。十歳の俺が忍び込めるなんて、ここのセキュリティシステムはどうなっているんだ? 見られては困るのだったら最初からここの存在について俺たちに告げなければいいし、SPやなにやらを立たせておけばいい。あんなの、入ってくださいと言っているものだ」

 少年の主張に、唖然と口を開けた青年だったが、ええと、と、少しうなり、少年に負けず劣らず喋り始めた。

「君には大人の話はちょっとわからないだろうけれど、こういう研究施設は事前に近隣住民に対する説明責任っていうものがあるんですよ。これこれこういう研究をします、どうぞご理解を。っていうね。知る権利っていうものがあるんです。だから君たちはそれを知って、理解しなくちゃいけない。ここの存在を知っている上で、ここへ立ち入ってはいけないということをね。セキュリティシステムなら、万全ですよ。君はここへ来たから」

 少年は指先で自分の頭をぐりぐりと押さえながら青年の話を聞く。最初のほうはあまり理解はできなかったようだが、後半はわかったらしい。そして憮然と言い放った。

「落とし穴とは、ずいぶんと原始的な罠だな」
「はは……、でも、意外とみんな引っかかるもんですよ」