すっかり冷え込んで、暖かげな光を灯している住宅街を歩く。道端の電灯はいやに寒々しく、白い吐息をそっけなく照らしている。どうして家の中の電気はあんなに暖かそうに見えるのだろう。小さな子供の泣き声がどこからか響く。それすらもどこか温度を持っている。
家に帰っても誰もいないはずだし、メシもレンジでチンの弁当だ。なんだか寒々しい(エアコンのタイマーを帰る時間あたりに設定しておこうか)。
ねこが何匹か塀の上からこちらを見ている。手を伸ばすと散り散りに去ってしまった。
アパートの階段を上り、自分の部屋の前に立つ。電気はついていない。中の様子をうかがっても、誰もいる気配はない。わかってはいたし、誰かがいられても困るものだ。俺は一人暮らしなのだから、誰もいてはいけない。
鍵を差し込んで取っ手を下ろす。真っ暗な部屋の中は外よりも冷え込んでいるような気さえする。後ろ手にドアをロックし、部屋の中の様子を探るが、やはり誰もいない。
ふと、なぜか誰かいることを期待していたらしい自分に気が付いた。どうやら俺は、あの奇妙な未来人がいるのではないか、と不思議な高揚感を持っていたらしい。なんとアホらしい。昨晩の出来事はきっと夢だったんだ。夢だ夢。未来のタイムマシンでやってきたらしい不思議な人間ともう少し話してみたかっただけだ。いったい未来にこの世界はどうなるのか、それに興味があっただけだ。だが、やっぱり夢だ。
実際に誰もいないひっそりとした部屋を見たとたん、今日一日考え続けたことがすべて水泡に帰した。あんなものの存在を一日でも真剣に考えた自分がマヌケで笑えてくる。どうしてすぐに夢だったと断ずることができなかったのやら。
水泡に帰した、とは言ってもたいしたことを考えていたわけではない。直江さんが再訪した場合の対処の方法や、彼が何者であるか、という、実際に事が起こらなければどうにも実感のわかないことばかりだ。あたかも胡蝶の夢のごとく彼が存在するような錯覚に囚われ、それらを真剣に考えたわけだ。
夢は深層心理を表すなんて話を聞いたことがある(またそんなことは嘘だという話も)。どちらが真であろうと、夢の中で『愛』という主題が提示されたことは本当のことだ。俺は『愛』についてわからないと答えていた。『愛』だけではなく他の感情も、ほとんど掴みきれていないと。現実の俺も似たようなものだ。『愛』だとか『喜怒哀楽』、それらは“こういうものだ”という定義に反発する心を持っている。とはいえ、「『感情』とはそういうものではなく、こういうものだ」と差し出す主張も持っていない。強いて言うならば「『感情』とは言葉にしかすぎない」という、なんとも煮え切らないものくらいだ。
しかし、夢の中の俺が言ったようにわからない終わりではなく、ただ、感覚的に知っている。それを言葉にする(あるいは“できる”)ことが気に入らないだけだった。この『気に入らない』という言葉も一種感情を表す言葉だ。『感情を言葉に収めることが気に入らない』という『気に入らない』が感情の言葉なのだ。つまり、これは言葉のパラドックスとなるわけだった。
気に入らないと言っても、結局はそれに頼るしかない。言葉なくして人との関わりは保てない。いちいち音に下さなくても相手に伝わるなんて、ただの自己満足にしかすぎない。俺のこのかわいらしい糾弾もまた自己満足の悪あがきだ。
いらんくだらんつまらん。らん、らん、らん。スリーラン。
意味のわからない言葉遊びに興じた。これもまた感情なんだな。
このことを考えている間、ずっと突っ立っていた。すぐに切り上げて暖房をつけ、ホットカーペットの電源をいれた。考えはじめる前に電源をいれていればよかった。それから出来合いの弁当を電子レンジに放り込み、三分ばかりに設定した。
つま先や指先は芯から冷え切っているようだ。手を洗えば、水が温かく感じるだろうかとためしに洗ってみたが、水のほうが一枚上手だった。やかんに水を流し込み、ガスコンロの火をつける。
そういえば、あの未来人の世界ではどんな文化になっているのだろう。タイムマシンというものを作り上げる技術を有しながら、服装は昔を思わせる。それとも、あれが流行の最先端な服装なのだろうか。思い出してみると時代劇で見るような服装よりも華美だし、若者のファッションは時折突飛な方向へ飛ぶ。言葉遣いは、やはり核戦争か? でもタイムマシンを作る技術が残っているのに言語が残らないなんておかしい。
一度考えた自分の推測に穴を見つけた。たしかに夢の中の出来事だったが、暇つぶしに考えるにはおもしろいネタだ。
ならば、彼が別の惑星からやってきた宇宙人的なものと考えてみようか。滅亡した人類の残された資料がたまたま日本では古いものだった。それに彼らの感性を加えた。それが兜だとかなんやかだ。あんな兜、学生のころに日本史の教科書で見たことがあったか? ない。つまり、あれは宇宙人の独創。あるいはあそこいっぱいが脳なのかもしれない。いや宇宙人に脳なんてあるのか? まあ、脳という呼称ではないにせよ、地球の人間でいう『脳』に値する部分はあるかもしれない。宇宙人たちは地球の文化を学ぶために自分らの技術――タイムマシンを利用し、過去へ遡っている。そうすることで言葉を音に下し、服装などもしだいに様々な要素を取り入れられて……。
……これでは、彼をイタイコチャン、なんて言えないな。俺も十分イタイコチャンだ。いい年して宇宙人だとかタイムマシンだとか。まるで子供じみている。そんなSFは中学生で卒業したと思っていたのだが。
やかんの口から湯気がもうもうと溢れていることに気付き、コンロのつまみをひねって止める。きゅうすの古い茶葉を捨て、新しい乾いた茶葉を入れる。湯をきゅうすに注いで、ぐるぐると小さく揺らし、最初のお茶をちょっと捨てて湯のみに注いだ。それをちょっとのどに流し込んで、一息つく。
こういった所作がどうにもおじさんくさいらしい。豊臣さんが前に『わしよりおっさんくさい』なんて言ってきたが、やはりそうなのだろうか。熱いものを飲んで一息つく。寒いときはこれが一番幸せだ。
そうこうしているうちに部屋がぬくもってきた。ついでに、電子レンジもとっくに止まっていた。弁当を中から取り出して包装を破いてゴミ袋に捨てる。
熱くなった漬物を食べて、
「まじい」
なんて一言呟いた。
なんだか、独身男性のわびしい生活を体現しているようで少しだけ寂しい。だが、周りが思っているほどにこの生活を気に入っていないわけではない。一人って楽だな、と思うことのほうがずっと多い。
家に帰ってべっぴんな嫁さんや可愛い盛りの子供にお父さんだとかパパだとか呼ばれて出迎えられる生活も悪くはないだろうが、自分で作らなければ特別な音がないというこの、ある意味で寺のようなこの空間は気に入っている。音すらも俺の支配下にある。そう思ってみた時期もあったが、なにより人に気を使わなくていいということが最大の魅力のように思える。
『魅力』もやっぱり感情のうちの一つなのかな。またそんなことを考えはじめて、ふと我に返ると弁当は少し冷めていた。
12/02