衝撃の一晩も明け、ほとんど一睡もできないまま出社するハメになった。それもこれも、直江さんのせいだ。欠席裁判で直江さんは有罪となった。が、欠席は欠席なのでなにも変わらない。
さて、困った。困る必要はないのだが、どうにも困った。実際に起きた不可思議なことをどう理解したらいいのかよくわからない。昨晩のことは夢だったのだろうか。だとしたら俺はいつ眠っていつ目覚めたのだろう。少なくとも、今朝起きたときには『目覚めた』という感覚はなかった。けれど無意識のうちに眠っていただけなのだろうか。眠りが浅すぎて気付かなかっただけか?
パソコンの画面をぼんやりと眺めながらそう思案していたが、さっさとこの膨大な量の数字をまとめてプリントアウトしなくてはならない。エクセルは苦手だ。関数をたまに間違える。今回は、IFCOUNTでよかったか……。
今の時代、コンピュータを扱えないとデメリットが大きい。なんてことを思ってノートパソコンを買ったのだが、煙草の煙で二年もしないうちにおシャカだ。年を取ると順応性も落ちてきて、新しいノートにはまだ慣れない(まして、OSも変わってしまった)。まだ二十六。だが二十五を過ぎてしまえば下り坂だ。
「島、おーい、島。……島!」
「うえっ、あ、はい、なんですか」
しまった。うっかり意識を飛ばしてしまっていたようだ。やべえやべえ。睡眠不足とは怖い。
俺を呼んだのは上司の豊臣さんだった。気さくな人柄で社員からもよく好かれている。仕事もできる(新製品の開発なんかでは引っ張りだこらしい)。
「ったく、何度呼んだと思っとるんじゃ」
「あー、すみませんねえ。年を取るとどうも」
「だーほ。ほんならわしはどうなるんじゃ、って。……と、そんなことじゃなくての。ほら、コーヒーが来とるぞ。お前さんがボケーっとしよるからこの子もかわいそうに」
「え……、ああ、すまないな。そこに置いといてくれ」
俺が呼ばれた理由はつまり、コーヒーを持ってきた子に気付かなかったからというものらしい。そんなもの、いちいち許可取らなくてもそこらに置いておいてくれればいいものを。
なんてコーヒーを持ってきた子を見遣ると、なかなかの上玉である。確か、今年入ったばかりの阿国さんだったかな。
「そうだな。お詫びに今夜あたり、どっかのレストランでも行きませんかね?」
「ややわあ、島さん。ほんなら、レストランやのうて一緒に出雲に帰りましょ」
「……は」
出雲? 出雲って、出雲大社がある出雲か? なんで。
絵に描いたような美しい笑顔を浮かべる阿国さんにどう返したものか、と悩んでいると豊臣さんがこっそり耳打ちしてきた。
「この子はあかんちゅうたろ。本気で出雲まで連れてかれんで」
「……はあ、えっと、あの……。まあ、機会がありましたらそのうち」
「どうぞよしなに」
頭を下げて、のんびりと去ってゆく阿国さんの背中を視界から追い出して、またパソコンに向き直る。隣で笑いを噛み殺している豊臣さんなんて知らない。
湯気が上がるコーヒーに口をつけ、いつのまにかブラックでも飲めるようになったな、とふと思う。いつから飲めるようになったんだったろうか。学生のころはブラックで飲む人間の気が知れないとすら思っていたのに。
「なに難しい顔しとんだか。今日は一日中そんな顔じゃぞ?」
「そう、ですかねえ。まあ、そうでしょうねえ」
「煮え切らない返事だの。よし、わしがいっちょ聞いたろ。お兄さんに話してみ」
「いやあ、私情ですのでお気になさらず」
引き出しから変な男が現れて、愛についてあれこれ聞かれた、だなんて気が違ってしまったと思われるに違いない。俺だって後輩にそう相談されたら気が違ったのではと思うだろう。
つまらん、と頬を膨らませてデスクに頭を転がした豊臣さんが羨ましい。結局のところ他人事だから、笑い飛ばすこともできる。当事者の俺は、一体あれがなんだったのかと常に頭を悩まし続けなくてはならない。
本当にあそこにタイムマシンがあったのか(俺もためしに引き出しに足をつっ込んだが、引き出しが壊れてしまった)。それとも夢だったのか。
「まあ、悩むのも若者らしくていいの。若いうちはめーいっぱい悩むのが仕事じゃ」
「もう若いつもりじゃないんですけれどねえ」
「島が若くなかったら、わしはとんでもないジイチャンじゃな。ほれ、ジイチャンの肩を揉んだれ」
「俺のゴッドフィンガーに腰が砕けないようにしてくださいよ」
「よーく言うわ」
そういえば、結局仕事が進んでいない。今日は残業か。WCEなんてクソッくらえ。あんなもんが認められちまったらもうどっか別の国に移住するしかないんじゃないか。働きすぎで死んじまう。
家に帰ったときに、あの直江さんがいないことを祈る。また、これからも来ないことを祈る。
でも、不法侵入者と断じていたが、引き出しから現れたり消えたりするということは現代の法に縛られない特殊な存在なのだろうか。ならば不法侵入者とも言いがたいような気がする。となると、彼はいったいどういう扱いになるのだろうか。生理的に受け付けないとか嫌いというわけではないが、疲れるし面倒だから警察に引き渡したいのだがな。法が適用されないのなら困ったもんだ。
「未来人って現代の法に適用されるんでしょうかねえ」
「はあ? 何をいきなり」
やたらゴリゴリとしている岩のごとき肩を揉み解しながら、独り言を言ってしまったようだ。年を取った証拠か。
「未来ったって、改憲しとらんかったら適用できるんじゃないんかねえ」
「そうなんですか?」
「いやまて、意外に難しいぞ。現代の人間には現代の法が一番じゃ。郷に入っては郷に従えとも言うが、未来の人間は……、いや。未来も過去も関係なく、現代の法を適用すべきか? わからんのー。でも、ま、未来の人間は未来から来たということを隠しているだろうから、現代の法に適用されるべきじゃな」
「なるほど」
なら、警察に突き出してもいいのか(来るなんて保障はないけれど)。
12/02