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 仕事を終えて家に着いたころには、夜も深くなり、寒さはいっそう増していた。今月は節約で過ごしているので、コートを買っていない(去年まで使っていたコートはタバコを落としたことに気付いていなかったせいで穴が開いた)。
 夏はこのスーツの堅苦しさが憎いものだが、冬はほんの少しばかりありがたい。
 暖かい部屋に入ってしばらくすると、手がむくんでかゆみをもよおした。
 出迎えは三成さんのみだ。

「ただいま」
「……おかえり」
「直江さんは?」
「お前の部屋に閉じこもっている。出てこない」
「そうですか」

 もしかしたら、引き出しに入ってどこかへ行っているのかもしれない。なるべく音を立てないようにドアを開けて中の様子を見ると、すずりにたっぷり墨を入れて、ひたすら紙に筆を走らせている直江さんが見つかった。ちらりと見えただけだが、かなりの達筆である。
 慎重にドアを閉めて、三成さんと目を合わせて意味もよくわからないままに頷いた。

「なんか、書いていました」
「なにを」
「知りません」

 それからは、各自勝手に時間をつぶすのみだ。
 ここで、直江さんが考えていることはどんなことなのだろうか。もちろん、俺には想像しきれないこともたくさんあるだろう。いや、それ以前にどういったことを考えるのか見当もつかない。(ある意味で)常識的な問題なら、俺にだって想像ができる。だが、これは常識はずれすぎる。
 なにかに恐怖、不安、畏怖を抱いて、なにかに猜疑を募らせ、なにかに安穏を求めなくてはならない。そのなにかがわからない。自分に恐怖を抱くかもしれない。過ぎてゆく時間に不安を覚えるかもしれない。飄々としていた元和元年の直江さんに畏怖を感じるかもしれない。なにもかもが疑わしく見えて真実なんてものはこの世に存在しないと断言するパラドックスに陥るかもしれない。ただ、自分を追及することで安穏を感じるかもしれない。
 その全てが傍観者である俺の勝手な想像で、曇りガラスのこちら側にある話だ。

「……あいつは、愛について本を書いたとかなんとか言っていたな。今書いているのではないか?」
「え、今?」
「そうだ。俺ならばそうする」
「なぜ」
「自分を確かめるためだ」
「どういうことで」

 確かに、元和元年の直江さんはもう本を書き終わったと言っていた。それ以前のいつかに書いているのは明確だが、それを今している確証はない。だが、していない確証もない。元和元年の直江さんから見れば、今は過去だからだ。

「自分の存在が、希薄になったような気がしないか。老いをどこかに置いて、自分の本来の姿を忘れてしまった。果たして自分が本当の自分なのか。あまりに飛躍的な考えだが、自分は本当は自分ではなく、本当の老いた自分がどこかに存在しているようにすら思うかもしれない。だから、自分がここに存在し、自分というものを確立するために、自己主張に近いものをしたためる。理屈としてはわからないか」
「なんとなくは」

 唐突に、直江さんが以前に言った「現在に自分の意見が残る」という言い回しを思い出した。そうか、彼は過去の人間で、過去でその書を残すから、現在に残るという意味だったのか。だが、三成さんの言い様だったら実際にその書が残るかどうかも危ういのだ。直江さんは、直江さんではないかもしれない、という。
 まるで幽体離脱だ。

「おい」
「はい」
「パソコンあるんだろう。ネットで調べろ。直江兼続を」
「え?」
「もしかしたら、いるかもしれないだろう」
「そうですねえ、本が残っているかもしれませんね」

 なるほど盲点だった。未来の人間ならば名前なんて当然載っているわけがないが、過去の人間なら無きにしも非ずだ。
 それから三成さんいわく、慶長が関ヶ原の戦いがあった年で、元和が江戸時代。三成さんの名前が聞き覚えがあるかな、と疑問に思ったが、関ヶ原の戦いでそんな人がいた(俺の教養とはこの程度なのだ)。

「なかなか、つながりがあるかもしれないぞ。俺の名前は三成、西軍の実質大将。兼続は俺のことをさも知っているような振る舞いをしていた。それが今よりも未来に訪れたときに俺と会ったと考えることも可能だが、時代的にそちらのほうが自然だ」
「彼、関ヶ原の戦いに関連したんでしょうかねえ」

 ノートパソコンを会社のカバンから取り出して、電源をいれる。少し不機嫌なので、しばらく放っておく必要があるようだ。

「お前、学生のときやらなかったか。西暦千六百年、慶長五年、関ヶ原の戦い。元和元年の兼続は、五十を越えていてもおかしくないと言っていた。正確な数字は知らないから断定できないが、三十、四十くらいだ。十分関与しうる」
「でも、大名とは限らないでしょう。そういう戦いは、庶民や公家なんかは関係していないじゃないですか」
「ばかか。どう見ても、あいつが公家や庶民ではないだろう。ましてや、僧でもあるまい。まるっきり武家ではないか。公家があんな武装をするか。庶民が義不義愛なんて言って、あれほど達筆な文字を書くか」
「あ、そうか」

 なるほど現役は違う。
 とはいえ、俺は暗記系の分野は得意ではなかったから現役でも危ういだろう。得意なのは体育と現代文、古典、漢文、英語、気象学、天文学、地学、少し物理学、くらいだ。数学は出来ないこともない。音楽、美術などの芸術系は大嫌いだった。
 三成さんは理系のイメージがあるが、体育と芸術系以外はなんでもできそうだ。

「なおえ、かねつぐ、っと。……あ、見てくださいよ、誤変換が『尚江加熱具』ですって。加熱具かあ」
「遊ぶな」

 冗談が通じない人だ。





12/02