渋る直江さんを俺の布団へ押し込んで、ソファで過ごした夜も明けて朝。リビングで寝ているので、三成さんが起きてくるとイヤでも目が覚める。
 三成さんはいつも読んでいるらしいアインシュタインの本とは違う、また分厚い本を片手に起きてきた。寝癖で髪の毛はあらぬ方向へうねっている。本を読みながら洗面所に向かったのを確認し、俺も起き上がった。まだ五時過ぎだ。昨晩寝たのは結局十二時を過ぎていたから、五時間くらいしか寝ていない。だが不思議と眠気はない。年を取ると、朝が早くなるとは言うがいくらなんでも、まだ二十六なのに。
 ひんやりとした床に驚き、つま先で移動しながらキッチンに向かい、水道のノブを上げて水を出す。コップに水を溜め、一気に飲み干した。冬はやっぱり水が冷たい。

「起こしたか」

 いつの間に戻ってきた三成さんは、半分据わっている目で俺を見る。曖昧に微笑んで明言は避けた。
 ずっしりとした重量感のある本を、バタンとテーブルに置き、大きなため息をつく。なにか憂鬱なことでも待ち構えているかのように、苦悶に満ちた表情だった。
 ストーブのスイッチを入れて、その前で暖かい空気が出てくるのを待ちながら、彼のため息の理由を考える。だが、考える間もなくそれはわかりきったことだった。タイムパラドックスだ。多分、時間旅行の術に頭を悩ませているのだ。
 過去の世界で時間旅行だなんてありうるはずがない。万一に可能だとしても、それは諸刃の剣なのだ。

「一晩中読んでいたんですか」
「少しは寝た。その割りに収穫がなかった」

 いったい、なんの本なのか(聞いたところで俺の知っている名詞は出てこないだろうと思ってはいるが)。昨日言っていた、ゲーテみたいな名前の人の本なのかもしれない。それならばお手上げだ。
 ゴキゴキ、というすさまじい音とともに、彼は首をならす。


「理論では説明できないのかも」
「なら、愛で説明する気か?」

 皮肉げに揶揄し、また本に手を伸ばした。まるで本の虫だ。
 理論では説明できないだろうと思っているし、もちろん愛で説明できるとも思っていない。むしろ、この世のどんな言葉を尽くしても説明なんて不可能ではないか、とすら思っている。
 タイムマシンについては説明できないが、三成さんの現在の状況は愛で説明ができる。(恋だなんだということではなく)三成さんは直江さんを愛しているからこそ、苛立って解決しようと躍起になるのだ。つまり、そういうことだ。なにをするにも、たいていが愛が複雑に絡んでいる。だからこそ、全ての感情は愛に帰結する、や、感情は愛そのもの、と思う。
 端的な話、俺が三成さんに距離を置いたのも愛が理由になる。ただ、そのベクトルは自分に向いていて周りを見ていなかっただけだ。自分を追い詰める結果になるだろうから、彼とは親しくしない。そういうことだったのだ。けれど今は、俺は三成さんを愛していると言ってもいい。自分と似たような境遇にある彼に同情している愛も多少はあるだろう。だが、最も多くを占めている愛は、ただ、本ばかり読んでいて自分よりも知識の豊富な彼を、尊敬にも似たものだ。
 そんなことを言って、変な顔をされるのもいやなのでこれは俺の心の内だけにとどめておくが。

「別に、愛は万能ではありませんし」
「あたりまえだ」
「それで、三成さんは?」
「なにが」
「愛ですよ。以前はずいぶん煮え切らない答えをいただきましたが」
「それなら、お前は言葉と感情がどうとか言っていたな。それはどうした」
「ああ、言葉で感情が伝えきれるかどうかってやつですか」
「そういう話だったか」

 ふくらはぎがストーブの吐く暖かい空気のおかげか少し熱くなってきた。ストーブから離れ、ソファに腰かけて三成さんを見上げる。

「考えれば考えるほど疑わしくなってくるものですね。言葉に愛を含ませるんですよ。コミュニケーションの話と一緒で、相手にも自分にも愛がなければ成り立たない」
「陳腐な答えだ」
「ですが、そういうものでしょう」
「ならば、文字にしたらどうなる。パソコンの文字にも、手紙にも、愛を含むことは? 耳が聞こえない人間は? それは一部の人間にしか適用されない」
「文字に愛がないなんて、それはちゃんと読めていないだけです。言葉の節々や選び方、句読点の置き方から愛というものは感じられます。耳が聞こえなくても、表情を見ることが出来る。目が見えなくても、声を聞くことが出来る。どちらもできなくても、触れることができる。たったそれだけのことではないですか」

 これを言ったら、まるで論破されたとでも言うように不愉快げな顔をするのかと思ったが、彼は意外にもすっきりとした子供らしい表情で微動だにしない。
 思えば、不愉快そうな顔をしそうだというのも偏見だ。自分の信じた意見しか納得できないという人間だと思っていたのかもしれない。だが、彼はそういった強情な人間ではなかった。

「まあ、愛はいい。今はこっちの……」
「多分、直江さんには時間が必要なのかもしれませんよ」
「時間?」
「ええ。あれほど驚天動地な話のあとで、はい原因探しましょう、なんて切り替えができないのでは」
「なぜだ。切り替えるまで、原因を考えないのか。その間、なにを考えているのだ」
「俺のあずかり知らぬ話です」
「それは、なんだか冷たいな」

 冷たいのだろうか。少なくとも、これも愛の産物だ。
 自分というものが揺らぎ、世界というものが憎みたくなるほどに疑わしくなっているだろう今に、さあ原因を探そう、なんて考えられるだろうか。ただ、じっくりとなにかを考えたい。それが普通なのかは知らないが、俺はそう思う。





12/02