「あれっ、寝てしまうのか?」
「ええ、寝ます」
「なぜ寝てしまうのだ?」
「眠いからです」
「眠いだって?」
この男、直江さんだったかな。この直江さんは空気を読むスキルを習得すべきであると俺は思う。
メシも食って風呂にも入って、寝る準備万端な俺に対し、「なぜ寝るのか」と問う。普通の日本人の感覚をしていれば「ああ、寝るのか。そろそろお暇しようかな」くらい考えてもいいのではないだろうか。恥の文化はどこへ行った。
なんて思っても、直江さんは動く気配などちっとも見せず、布団の隣でちょんと正座したままだ。すでに寝転がっていた俺は体を起こし、直江さんと向き合った。
「なら俺は直江さんに問い返します。なぜ帰らない」
「愛について指南すると言ったし、なにより、まだ愛についての見解を聞いていない」
「……愛は、人間にとって重要な輝いた感情だと思います。はい、帰ってください」
我ながら寒いことを言った。冷たい布団に寝転がりながら違う意味の寒気が走るのを感じた。
呆れて帰ってくれるのではないかと期待していたのだが、むしろ直江さんは難しい顔を作り、唸り声をあげはじめた。
断言しよう。この手のタイプは語りはじめると止まらない。納得がいくまで自分が喋り、また相手の意見を枯れるほどに絞りつくし、それに対し自分の意見をつらつら述べ、相手の反応を得て、というサイクルを延々と続け、自分の言葉が尽きて初めて充足感を得る。俺はそんなに若くないし、自分の考えたことをいちいち掘り下げられても困るというものだ。そういうことは、哲学だとか心理学だとかそういうことを生業にしている物書きに聞けばいい。あるいは、それらについてを勉強している真っ最中の学生が一番いいかもしれない。語り合いたくてうずうずしているに違いないのだから。こんな、しがない青い社会人を相手にする意味なんてない(けれど、心理学の人も哲学の人も『愛』について特別考える人っていうのは少なそうだ)。
「確かに、愛と言うものは重要だな」
適当に言ったことに、納得されてしまった。予想外だが、納得してくれたのなら希望はある。帰ってくれる可能性が抜群に高いように思える。
だが、そう上手くいくことなんて、お話の世界でのことだということは自覚している。
「私が聞きたいのは、重要であるという理由、かな。なぜ人に愛が必要なのだと思う?」
「……はあ」
布団に寝転がっていたが、起き上がった。直江さんは相変わらず正座のままだったから、寝転がっているというのも体裁が悪い。本当は早く寝たいのだが。俺って人間はつくづくお人よしだ。
さて、向き合うと直江さんもどこか嬉しそうに膝を進めて喋りはじめた。
「愛というものは、義と同じように人間の心に重要なものだと私は思うのだ。しかし全ての人間がそうと考えているわけではないようだ。そこで、私はあらゆる人からの意見をまとめ、それを書にしたため、後世に遺そうと思っているのだよ。なるべく多くの考えがあったほうがいい。島殿のように、愛がわからないというのもひとつの例として取り上げたい」
「別に、俺みたいな人間よりも、専門の人間に聞いたほうがいいと思うがね」
「なに? 愛の道を究めた人間がいるというのか? それは一体誰だ?」
「いや、あの……、心理学を学んでいる人や、哲学の人とか……」
「……変わった名だな。すぐに見つかるだろうか」
日本語が通じなくて、俺はとても悲しい。ついさっきまで普通に会話していたと思ったのに、突然日本人をやめてしまったのだろうか。どこの日本に『シンリガクヲマナンデイルヒト』だとか『テツガクノヒト』なんて名前の人間がいるというのだ。どこまでが苗字なんだ。学生時代にいじめられそうではないか。
けれど直江さんは本気で悩んでいるようだ。ぶつぶつと心理学を学んでいる人だとか哲学の人と諳んじている。
茶化している場合じゃない。直江さんがなぜ、そのような発言をしたのか、が問題だ。外見から見ると俺と同年代くらいのニイチャンだ。そのニイチャンが、心理学や哲学という言葉を知らないということがありうるのか? 一年に一度くらいどこかで聞いたっておかしくはない言葉だと思うし、一年に一度聞かなくても有名な言葉だと思う。
できることなら心底考えたくはないが、この直江さんという男は、服装の通り現代の人間ではないと。言動が妙に仰々しいのもそれが理由で、引き出しから出てきたのは噂のタイムマシンというものがそこにあったりなどすると。タイムマシンというものは未来にできるものだから、直江さんは未来の人間だ。現在からタイムマシンができる未来の間になにか驚異的な核戦争みたいなものが起きて、現在の言葉や文化などがほとんど失われ、現在よりも過去の文化エトセトラが残り、それが使用されている。……などということを一瞬考えたが、ばかばかしい。タイムマシンなんて、俺は子供か。アインシュタインの特殊相対性理論だって未来にしか行けないというのに。
「わかった。そういう人を少し、探してこよう」
「は」
「島殿への愛の指南はまた後日だ。夜分に邪魔をした」
そう言うなり直江さんは頭を下げ、俺の引き出しを開け、中へ入っていってしまった。
呆然とその様子を見守っていたが、ふと我に返り、恐る恐る引き出しを覗き込む。中に直江さんはいない。ただ、いつも通りへそくりだとか手帳だとか、見慣れたものが入っているだけだ。
「なんてこったい」
そう呟くしかできないのだ。
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