直江さんが来てから数日、三成さんは直江さんに理科をずっと教えている。最初は嫌そうな顔をしていたのだが、いざ教えると直江さんは飲み込みがとても早く応用もきく。教えがいがあるようだ。
 理科なんて何年もやっていないな、と二人の会話を聞いているが、ちっとも思い出せない言葉ばかりが出てくる。説明も聞いているが、ちっともだった。アインシュタインは例外的に覚えていただけなのだ(唯一、理系で興味を持った話だったからだ)。
 土日も飽きずに一日中二人で本を読んだり、勉強したりと静かな日々だった。そしてとうとう、例の特殊相対性理論にまで話は及んだ。

「問題だ。エーテルとはなにか」
「存在しない媒質」
「当たり」

 俺ですらわからないことを二人は苦もなく理解しているらしい。
 面目が立たないような気がしてエーテルをネットで調べたが、わかるようなわからないような、曖昧な結果に終わってしまった。俺の二十六年間はいったいなんのためにあったのか。

「あの、エーテルって」
「特殊相対性理論を知っているのだろう? 知らないのか?」
「お恥ずかしいことに」
「アインシュタインが特殊相対性理論を考えつくにいたった理由のひとつだ」
「当時、光は『波』と考えられていたそうな。その波を伝えるにはなにかしらの媒質が必要になる。水で波を起こすには、水がやっぱり必要だからな。その、本当は存在しない媒質を仮にエーテルと名付けたらしいぞ」
「へえ……」

 それはわかったが、それがどうして特殊相対性理論につながるのか。ああ、そうか、光だからか(光速で移動するほど時間の進みが遅くなる話だった)。
 俺よりも理科ができないらしいと思っていた直江さんにすらすらとエーテルとやらを説明されて、少し気後れしてしまった。決して見下していたつもりはないが、少しくらいは侮っていたらしい。

「そう、私はこの特殊相対性理論、光速(秒速三十万キロメートル)に近い速さで進むと時間の進みが遅くなる、というだけの話だと思っていたが違ったようだ」
「え、そうなんですか?」
「左近、お前がよくわからない」

 三成さんは俺が知っているものと思っていたらしい。直江さんの話に意外さを覚えて食いついたら、呆れた顔をされてしまった。言っておくが、俺はそこまで究めていない。
 それよりも気になるのが、特殊相対性理論の実態だった。俺はそうだと認識していたが、違うらしいとのことだ。この十年近い間、ずっと勘違いしていたというわけか。

「相対性理論というものは、文字通り、絶対的ではない話だ。『相対』の反対は『絶対』だろう」
「はあ」
「時間や空間は絶対的なものではなく、立場によって変わる曖昧としたものということだ」

 その説明ではたして理解できたのかと聞かれると、八分ほどは、といったところだろうか。相対性理論は立場によって変わる話。わかるけれど、なにが立場によって変わるのかがわからない。

「それはそうと、この特殊相対性理論、お前は信じられるか? 光速で進むと時間の進みが遅くなるという。前に言っていた、タイムマシンのことだ」
「どうでしょう。その理論でのタイムマシンはあまり信じていませんが」

 信じられないな、ということはある。光速で移動する機会なんてないだろうし、遅くなるということが科学的にありえると言われていることが信じがたい。
 この理論でいくと、未来へのタイムマシンは可能になる。まあ、実際に過去にやってきた人がいるので、タイムマシンそのものは肯定だが、この理論でのタイムマシンは信じられない、だ。

「時速二百キロメートルで進む新幹線に乗ると一秒あたり百兆分の二秒、時間の進みが遅くなると言われている」
「そうなんですか」

 目から鱗だ。新幹線なら何度も乗ったことがある。一秒あたり百兆分の二秒なら、俺はわずかながらに未来に進んでいるのか。……いや、身近な乗り物を例に出されると、かえって現実味を感じられない。そんな実感、ちっともないからだ(光速で移動しているとき、時間の進みが遅くなっていることを移動している人間は実感できないとはいうが)。
 それで、結局、それ以上のどういう話があるのか。直江さんが言った、『それだけではない』とはどういうことか。

「それで?」
「相対性理論は立場によって変わると言っただろう」
「宇宙船で実験をしたと仮定しよう。地表にいる観測者と、宇宙船に乗っている人間がいる。地表にいる観測者からは宇宙船のほうが時間の進みが遅くなっていると観測できる。だが、同様に宇宙船に乗っている人間から見ると、地表のほうこそ時間の進みが遅くなっているように観測できるのだ」
「つまり、時間の進みの遅れはおたがいさま、ってことになるんですか」

 それで、『立場によって変わる』か。なるほど。理屈は理解できた。
 ふと、立場によって変わる、というものはたくさんあるなと考えた。そう考えると、大半のことが相対性理論なのだなと少し物理学者的な物の見方ができる。愛についても、やはり相対性理論で片付けることができる。立場によって変わる。これほど簡単な答えでもっともらしくなる。

「しかし、直江さんはいつのまにそんなことまで勉強したのですね」
「兼続はスポンジのような頭だ。教えれば、すぐに吸い込む」
「学ぶことは基本的に好きだからな」
「そりゃ、立派なお心で」

 勉強なんて、好きでも嫌いでもなかった俺にとってみれば、勉強を好きという人間の気が知れない。おもしろいことも確かにあるが、好んで机に向かってガリガリする気にはなれないのだ。
 多分、三成さんと直江さんはそういったところで気が合っているのだろう。少なくとも、俺と三成さんよりかは仲が良さそうに見える。





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