今日は傍から見るといやに上機嫌だったらしい。それはもう、気味が悪くて誰も近寄らないほどに。
唯一、豊臣さんが近寄ってきて「男心と秋の空、か」とだけ言って自分のデスクにカラカラと戻っていってしまった。
今の俺は脱皮した蝶のように気分は軽やかだ。体は痛くて重い。結局、直江さんに俺の寝床を貸して、三成さんはいつも通りに客用の布団で寝た。俺はリビングの二人座れるか、という程度のソファーで眠った。だが、気分はそんなことに左右されなかった。
昨日、愛についてすっきりすることができた。それだけと思われるかもしれないが、十分楽になった。まだ直江さんとそのことについて話したわけではないが、以前のような醜態を見せることはまずないだろう。三成さんも意外と何も言ってこないもので、不安に過ごした時間がまるでむだになったということだ。
けれどかまわない。とにかく、俺は憑き物が落ちたのだ。
軽い足取りを自覚しながら帰路につき、家についたのはそれでも八時ごろだった。けれどそれもいい。
「ただいまーっと」
「おお、帰ったか島殿。随分遅い帰宅だったな」
リビングに入ると、ガスファンヒーターのムッとした熱気が肺腑に充満した。
俺が昨晩過ごした二人がけのソファに、三成さんと直江さんが並んで座って本を読んでいた。三成さんは例の分厚い本で、直江さんは前に読みかけていたルイス・キャロル『鏡の国のアリス』だった。
自然と頬が緩んでいたようで、三成さんは痴漢にでも遭ったような顔で俺を注視している。
「酔っているのか?」
「酔いませんよ。飲んでいませんもん」
「島殿は酒にめっぽう強いからな。飲んでもあからさまには酔わないだろう」
三成さんは俺に対して警戒しながらも本を閉じ、俺に近寄らないようにキッチンに滑り込んだ。別に、害を加えるつもりなんてないのに。
「随分機嫌がいいな。いつぞやかとは大違いだ」
「いやあ、その話はご勘弁を」
「いやいや、勘弁などしないぞ。まあその話はまた後でだ」
「そうですか?」
「ああ、存分に後で話すといい」
目を細めて、直江さんは笑う。見たことはないが、半跏思惟像と言われる弥勒菩薩も、こういった穏やかな表情をしているのではないか、というほどに馴染む笑顔だった。
自らの読んでいた本を閉じ、直江さんは三成さんの読んでいた本に手を伸ばした。
「おもしろい話があるのだな。特殊相対性理論。南蛮の宗教のようなものかと思ったが、どうやら学問らしい」
「なんばん?」
「ああ、今は南蛮と一括せずに各々国名で言うんだな。ドイツと言ったか」
「多分」
興味があったのは中身で、アインシュタイン自体に興味があったわけではないのでドイツ出身かどうかは知らない。まあ、ドイツとかフランスとか、そのあたりだろうとは思うが。
しかし、彼のいる未来というものは本当によくわからない。アインシュタインの名も残っていないのか。それとも彼が知らないだけなのか。いや、今の時代だって、彼がどういう学問をしたかどうかまではともかく、アインシュタインという名前くらいは子供だって知っている。
「初めて見る言葉ばかりで難読大著と見た。なんだったかな、この、ニュートンという人間の絶対座標。『宇宙の中で完全に静止した座標』。そもそも、宇宙がなにかというところから教えてもらった」
「は」
「ああ、三成に教えてもらった」
「は、いや、待ってください」
「なんだ」
今、とんでもない言葉を聞いた気がする。
「『宇宙がなにか』から始めたですって?」
「そうだ。宇宙とは、呼吸ができない場所らしいな。私たちが呼吸をするには酸素というものが必要らしい。宇宙にはそれがないと。つまり、宇宙に人は住めぬのだということがわかった」
ああ、特殊相対性理論への道は長いなんてそういう話ではなくて、宇宙を知らないだって? 酸素というものが必要らしいって? ませたお子様なら『酸素よりも窒素の割合が大きい』なんて言ってもおかしくないほどに有名だ。誰だって知っている。地球は丸い。地球は青かった。宇宙の中に太陽や火星や地球があって、銀河系があって、酸素は木や葉っぱが二酸化炭素を取り込んで、光合成して酸素を生むって。
未来は、どうなっているんだ。
「流石三成だった。よく丁寧に説明してくれたぞ。だが、文字を追うごとに説明を頼む言葉が増えてきて、三成もよくわからなくなってしまったらしい」
「そりゃ……まあ」
当たり前に知っていることほど、説明は難しいものだ。改めて聞かれると、そういえば説明できないな、なんてことはざらにある。宇宙なんてなんとなく知っているけれどいざ説明となると、どこからなにをどう説明したらいいのか、てんでわからなくなってしまいそうだ。
「そうだ。左近、お前の知り合いは変なやつだ。まるで、なぜなぜぼうやだ。おかげで俺は、あやうく自分を見失うところだった」
「はあ……」
宇宙ってなに、と俺と年の変わらない大人の男に真剣に聞かれているのに、変なやつ、で済ませることができる三成さんも十分変なやつなのだが。
「む? 『光の速さで飛んだ場合、顔は鏡に映るのか』……。島殿、光の速さってどれくらいだ? 馬とどちらが速い?」
「そりゃ、光のほうが速いに決まっているのですが……」
「ふむ……。じゃあ、鉄砲の弾とどちらが速い?」
「光です」
「一秒で約三十万キロ進む」
「三十万キロ?」
「とんでもなく速いってことですよ。目に見えないくらいに」
「人間がそんなに速く移動できるのか? 目に見えない速さで移動したら鏡には映らないだろう」
横から口を挟んだ三成さんも、ため息をついた。どうやら帰ってきてからずっとこの調子だったらしいことは予想がつく。ぶつぶつと「だから仮定の話で……」と呟いてい声が耳に痛い。
直江さんは直江さんで、「光速、速い。波、媒質が必要。等速直線運動」と呟いている。
どこか浮かれていた気持ちは、少し落ち着いていた。
12/02