「おうおう、島、お前がひっきりなしにため息をつくせいで、なんだかここは二酸化炭素が充満していて息苦しいのう」

 その豊臣さんの軽口で、ふと我に返った。
 今の今まで、何を考えていたのだろうか。何も考えていない瞬間というものがあるのかは知らないが、今の俺はまさしくそれだったように思える。
 特別に憂鬱なことが待ち受けているわけではない。暗澹としたゆるやかなうねりが常に身に纏っている。それをすぐさま振り切ることは不可能で、時間をかけてそいつをぽろぽろと落としていく以外に道はない。道のりの長さは不明だ。

「なにをそんなに。阿国さんが恋しくなったんか?」
「違いますよ」

 思ってもいないことを言っているのは察することができるが、この手のやり取りは今の俺にはタブーだ。
 愛だ恋だなんて聞きたくない。

「お前は、変に頭の硬い男なんだから。もっと浮いた話でもしたらどうかね」
「母の再婚相手の連れ子とあらぬ仲になったとでも言えば満足ですか?」
「いや、そこまで頭が柔軟な話は」
「もちろん冗談ですよ」
「わあっとるわい。お前さんのため息が恋煩いじゃないことくらい、見りゃわかる。まるで死相が出とる」

 ずっといじらなかったせいか、パソコンは勝手にスリープモードに入っている。ディスプレイに映った自分の顔を見てみるとなるほど、ひどい顔だった。眉間には谷のように深いシワが刻まれ、口元はへの字でぴくりともしない。前かがみ気味のせいか全体的に影をまぶしたような陰影で、なにより目つきが危うい。鏡で見たらもっと自分の顔に絶望するだろう。
 そういえば、今日は誰にも声をかけられていなかった。腫れ物だったのだろうか、俺は。

「で、なんか厄介事かの。まあ、予想はつくがな」
「予想つきます?」
「つくつく。脈絡もなくおかんの再婚相手の連れ子の話をするんじゃ。そこらでゴタゴタでもあったんじゃろ? ま、家庭の話に首つっこむのはごめんじゃがな」
「さすが、豊臣さんだ」

 内容まで聞いてくるような人間なんてそうそういないし、聞かれたところで言えたものではない。三十を目前に控えた男が十六の子供相手に『愛について口論じみたことになって、ほうっておいてくれとヘソを曲げた』なんて、いい笑いの種だ。
 耳かきで耳をカリカリと掻きながら、豊臣さんはあくびを一つした。なにをやらせても仕事が早いうえに、気の回りがよいのでいつも忙しい印象があるが、俺にしょっちゅう雑談をけしかけてくるあたりよくわからない。
 マウスを少し動かせば、パッと例のエクセル画面に戻る。

「しっかし、島は意外とその子のこと、気に入ってるんじゃな。もしかして、さっきの話も冗談なんかじゃないとか」
「ありえませんな。態度もでかいしズケズケとものは言うし、かわいらしさのかけらもない」
「ムキになって否定するのもあーやしいの」
「勘弁してくださいよ。仮に男もイケる人間だったとしても、相手は十六。淫行罪ですよ、淫行罪」

 もちろん、仮に、なのでそれはありえないのだが。

「ま、そこは置いといて。でも気に入ってることは確かなようじゃの」
「どこがですか」
「島が他人の話をするなんて、珍しいからな。それに、誰かのことを考えて憂鬱な気分をありありと見せるなんて、国宝級」
「聞かれたから答えたまでです」

 俺は、あまり他人の話をしたことがなかっただろうか。言われてみるとそのようであったとも思えないこともない。しかし、話すほどのことがなかっただけのことだ。友人と呼べる人間は高校のころにも大学のころにもいたはずだが、すぐに疎遠になった。近寄ってくる女はいたし、そこそこに遊んだような記憶もあるが、その程度のおぼろげなものだった。
 今、こうして彼の話をしているということはつまり、現在進行形の話だからであるだけで、特別なことではないのだ。
 たったそれだけの材料で気に入っていると思われるのはどうにも、腑に落ちないものがある。俺の沽券に関わる、とまではいかないが。

「んー、じゃ、気に入ってるとまでは言わんが、気にかけてはいるんじゃろ?」
「そりゃ、気にならないと言ったら嘘になりますけれど」
「ケンカでもしたんなら、仲直りして損はないと思うがのう。これからもそこそこ交流はあるんだろうからさ」
「ないとは思いますけれどねえ。それに、ケンカなんてしちゃいませんよ」
「じゃ、やっぱり恋煩いじゃろ」
「だから違うって……」

 俺のデスクを蹴って、カラカラと椅子を転がして自分のデスクに戻ってしまった豊臣さんの背中に、俺の言葉はむなしく飛んだだけだった。
 どうしてか人は他人の色恋沙汰となるとおもしろおかしく話したくなるものだ(そして、豊臣さんは妙に憎めない人間だから困ったものだ)。
 デスクの端っこに置いてあるティッシュを一枚引っ張り出す。二枚重ねのそれを分離させて、一枚はデスクの上に広げてくるくるに丸めて捨てた。もう一枚は短冊のようにちぎって、やっぱり捨てた。また一枚ティッシュを引っ張り出して、今度は分離させずにそのままデスクの上に置く。ペンはどこにあったか、と水性ペンを探し出して、落書きにいそしんだ。
 そういえば、木の絵を描いて心理状態を探る、バウムテストだかなんだかそういった名前のテストがあった。ためしに描いてみようと思ったが、思えばあれは広く知られていて、どういう絵を描いたらこういう状態である、ということも有名だった。俺もそれを少しは知っている。知っているのなら、意味はない。

 そうか。俺は、半端に知識を持っているから身動きが取れないのか。





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