「お前はなにかを愛しているかな?」
用事とは、これらしい。
窓の外を眺めると月が左側に寄っている。まだ七時くらいなのか。最近は日が暮れるのが早くなった。月も早いうちからよく見えるし、傾き具合を見ればだいたい何時頃か想像がつく。時計なんてものがなかった時代は、太陽の影の位置や月の位置で時間の目安をつけていたらしいことを思い出す。この男もそうしているのだろうか。
変なところに意識を飛ばしてしまったが、『なにかを愛しているか』と。どういう意味だろうか。愛って、愛か。なぜこんなことを聞かれているのかわからない。
「それを聞いて、どうするつもりなんですか」
「いやなに。まずは答えてほしい」
「愛、ねえ……」
愛しているとか、意味がわからない。言葉としての意味なら知っているが、その観念が理解できない。愛のみならず、感情全般についても俺はいまいち理解できていない。
厭世ぶっているとかそういうつもりはないが、感情については誰も教えてくれないものだ。例えば、『嬉しい』。『嬉しい』という言葉は教えてもらうことができるが、自分の心のどの状態が『嬉しい』なのかは誰も教えてくれない。たくさん言葉を尽くして説明してくる人間もいるが、感情には個人差があるし、目に見えない。『嬉しい』とはつまり、俺がどう考えれば『嬉しい』なのか。
もちろん、本気でわからないわけではない。『嬉しい』『悲しい』などはごく身近な感情だから、感覚的に理解はしているつもりだ。ただ言葉で説明できないだけの話なのだが、『愛』については未だによくわからない。なにがどうわからないのかもよくわからないから困ったものだ。
「さあ、わかりませんなあ」
「わからない? 自分がなにを愛しているのかわからないのか?」
「そうです」
「なっ、なんと、愛がわからないのか! 初めてだ!」
と、男はやたら衝撃を受けたように口に手をあて、首を傾げてしまった。
なにが初めてなのだろうか。もしや、俺以外にもこうして『なにかを愛しているのか』と聞いて回っているのだろうか。俺と同じ経験を有する人間がいるというのもおもしろいものだが……、なんのためにこの男はそんなことをしているのか。
「で、結局、こんなこと聞いてどうするんですか」
「愛がわからない……。難しいな」
こいつ、聞いちゃいない。
ピンと背筋を張ったまま、悩ましげにカーペットを見つめてぶつぶつと呟いている。なんだかどうでもよくなってきて、さっさとお帰り願おうかと考えた矢先、男は唐突に立ち上がった。
「愛がわからないというならば、私が愛について指南しよう。話はそれからだ」
「いえ、結構です」
「そういえば自己紹介が遅れたな。私の名は直江兼続という。好きなものは義と愛と志を同じくした友。嫌いなものは不義と山犬と利に群がるハエ。趣味は義について語らうことと、愛することだ。日課は人々に謎かけをすることだ」
「はあ」
いきなり喋りだしたぞ。聞いてもいないのに、細かく自己紹介し始めた。正直、右から入って左に抜けている。
俺も自己紹介したほうがいいのだろうか。けれど、一応、扱いは不審者なんだな。なんやかんやと警察を呼ぶきっかけも掴めず、ぐだぐだと頭をつき合わせているわけだったのだが。だから自己紹介なんて、しなくてもいいよな。
「愛がわからないという人間に聞くのもどうかと思うが、これもまた一つの事例だな。さて、『愛』とは、なんだと思うかな」
「……あの」
「ん?」
「腹が減ったので、そろそろ帰っていただいてもいいでしょうか……」
明日の仕事に差し支える。さっさとメシ食って寝たい。
生憎と、俺は酔狂な人柄でもないので、こういう悪ふざけには付き合う気がない。それに、愛とはなんだとか言う話にも興味がない。小難しいことを考えるのは嫌いじゃないが、この年にもなるとそう暇がない。そんなことをしょっちゅう考えていられるのは学生のうちくらいで、また興味があるのも学生のうちくらいだ。思春期だとか、大人になってゆくあたりというものは、そういう既に存在している『何か』に対して異常なほど疑問に思うことがある。そういう時期にこの男が現れていたのなら嬉々として食いついただろうが。
結局、そんなことを考えたって役には立たない。気難しい人間に見られてしまうし、そのうち忘れてしまうし、デメリットばかりだ。これは俺が経験したことだから確証する。
男はガクリ、と大げさなリアクションを取り、ため息をつく。
「島殿は本当に空気が読めない人だ……。私のことなど気にせずに夕餉にすればいい。夕餉が終わったらまた話にしよう」
「はあ、どうも」
帰ってくれないらしい。まあ、こんな格好をした人間が俺の部屋から出ていくところを近所の人に見られるのも問題がありそうだ。とはいえいつまでも居座られても困る。
あれ、そういや俺、自己紹介したっけか。……あ、表札か。手間が省けたと思うべきか、不審者に名前を覚えられてしまったと嘆くべきか。
だめだ。あまりに突然の出来事すぎて思考がまとまらない。なにをどうすればいいのかちっともわからない。二十六年生きて、不測の事態にこうも戸惑ってしまうとは妙に情けない。
とりあえず言えることは、普通に邪魔なので帰っていただきたい(でもどうすれば帰ってくれるのか、わからない)。
11/28