本に視線を落としているように見えるが、実は本なんか読んじゃいないということに気付かない俺ではなかった。愛について聞いてからというものの、三成さんは眉間にシワを寄せて微動だにしなくなることが多くなった。けれど愛について考えているなんて本人は言っていないし、もしかしたら別のことかもしれない(例えば、学校とか)。

「なにを考えているんですかー?」
「なにも」
「愛について、考えているんでしょう。難しいでしょう?」

 三成さんはため息をつき、音を立てて本を閉じる。そして、俺を見据えるなり眉を吊り上げた。

「うるさい、かまうな。お前は俺と馴れ合う気がないのだろう。半端なものはいらん。目障りだ」
「目障りもなにも、ここは俺の家ですから」
「じゃあ出て行く」
「なにをそんなに怒っているんですかねえ?」

 本当に勢いで出て行こうと大股で歩き始めたものだから、腕を掴み、慌てて引き止める。
 十度近くの寒空を想像しただけで肩が上がってしまう。部屋着で、金も持たずに出て行ってどうするというのだ。それになにか厄介ごとに巻き込まれたならば俺が大目玉を食らうのだ。
 俺だって一応は社会人の大人で、感情ばかりで動くほどのエネルギッシュさはもうない。よって、俺は彼を気遣う。それに、彼が怒る理由というものがどことなく理解できたから余計に、彼を引き止めなくてはならないような気がしてならなかった。

「なんだ。いないほうがいいのだろう」
「そこまで言っちゃいませんよ」
「口で言っていなくても、目や態度がそう言っている」
「あー、目つきも態度も普段からこんなもんですからね。ともかくそう怒らないでください」
「俺が怒ろうが喜ぼうが、お前は興味がないくせに」
「興味はなくとも、困るんですよ」

 客観的に自分を見る、ということは年を取るにつれて自然と出来るようになっていた。若い頃は客観的に自分を見るといっても、外見的なものばかり気にしていて中身のほうはてんで駄目だった。
 両親は基本的に働いていていなかったから、小さいころは帰ってきたら遊んでもらおうとまとわり付いて、こっぴどく怒られたことがよくあった。そのせいか(好意的な人間に対し)人の顔色を窺うような癖ができてしまい、常に自分を取り繕っている。怒られるのが好き、という人間はもちろん少ないはずだが、特に俺はひどいのではないかとすら思う。

「困るか。なるほど。俺になにかあったら母親になにか言われるだろうからな」
「ま、そんなところですよ」
「お前は愛がどうこうと言ったが、愛を『人を深く好きになる』ことと仮定した場合、誰かを愛しているのか?」

 直江さんが聞いたことと同じようなことだった。あの時、俺はわからないと答えた。今も同じだ。だが、愛を『人を深く好きになる』と仮定した場合ならば、どうだろう。

「……両親は、もちろん、愛していますよ」
「嘘だな。逆だ。お前は憎んでいる」

 テーブルの上に置いておいたタバコに手を伸ばす(食後は妙にタバコが恋しい)。

「自分が普通の家庭の子供より愛されなかったと自分を哀れんでいるのだろう。カタストロフィの主人公にでもなったように自己正当化に励んで、嫌われ役を両親にあてがっているのだろう。不遇に置かれていた身としても両親を愛していると言って美化した自分を愛しているのだ。そして、本心では『愛なんてものは存在しない』『愛なんてわからない』と考えているのだよ、お前は。『愛』がなんだと俺に聞く。他の人間にも聞いたか? ただお前は言葉にして欲しいだけだ。『愛している』と言われたいだけだ。俺に聞いたのは傷の舐めあいでもしたかったのか? 冗談じゃない。図星だろう? タバコを吸うという行為は、本人は余裕を表しているつもりでも本当は余裕がなくなっているのを紛らわすための行為に他ならない」

 口を挟む隙さえ与えずに、彼は言い募った。
 深層心理を見透かされているのだろうか、と思ってしまうほどに淀みがなく、確信している口調だった。
 それは、俺が最も考えたくない案件だった。
 俺も大衆と同じように『自分が特別である』と思いたい気持ちがないわけでもない。むしろ、自分は特別ではない、という口ぶりで話すあたり、そういった自我は人一倍強いのかもしれない。だからこそ、考えたくなかったし、見てみぬふりをしてきたつもりだった。
 暗黙の了解というやつがある。誰かが誰かの相談に乗ったときに『悲劇のヒロインになったつもりか』とか『お前ばっかりつらいみたいじゃないか』ということは普通は言わない。『自分が特別だと思っているのか』という詰問は、相談された相手も少なからず持っているので暗黙の了解で言わないものなのだ。
 けれど三成さんはその慣わしなど知らないと言わんばかりに厳しく糾弾した。

「その通りであるだろう、とは思いますが、三成さんだって似たようなものでしょう。『俺はこんなにも難解な本を読んで、それを理解している。自分は周りの人間なんかとは違う』運命劇かなにかの主人公にでもなったように。そして言う。『自分を愛せ』と。そういうものでしょう? 悲劇でも喜劇でもなんでも、誰だって主役のほうがいい。特別な運命を欲しがる。日常が壊れるような劇的なターンチェンジを望んでいる」
「ふん、言い訳が見つからずに開き直ったか。見苦しい。自分ひとりの感性で全てをそうだと決め付ける根性がいやらしい。誰しもがそうであると決め付けて森に隠れた木になっているのだろうが、お前は頭が一つ飛び出ている。『自分は特別ではない』“と思っている自分を”『特別』だと思っている」

 俺がついさっきに考えたばかりのことを、三成さんは口にした。まさにその通り、と言うのか。

「もう、ほうっておいてくれ。俺は大衆と同じでいい。こんなこと、考えたくない」

 多分、これが本音だった。





12/02