酔っ払った豊臣さんに駅まで付き添い、ようやく家についたのは八時だ。これでも一般のサラリーマンに比べれば早い帰宅だろう。
 遠目に自分の部屋を見つけたとき、電気がついていることに言いようのない有耶無耶とした感情が湧いた(言葉ではやはり感情を言い表せない)。
 家に入り、リビングに顔を見せると、例の分厚い本を開いていた三成さんは無表情のままキッチンに向かった。未だに彼は挨拶ができない。
 考えてみると、彼も俺と似たような心境なのだろう。父親が再婚となれば、母親がいなかった間は鍵っ子であっただろうし、若い子供がいるというのに離婚をするに至った経緯がある。少なくとも仲のいい家族とは言いがたかっただろう。そして、再婚した父とその相手は自分を置いて一ヶ月の長期新婚旅行。その間はオッサンにもなる義理の兄の家に居候だ。居心地がいいものではない。家事を俺の代わりにこなすということは、彼なりに自分の地位を築こうとしていると考えればいいのか。
 一ヶ月(あと半月ほど)の話だ。少しくらい仲良くしてもいいんじゃないか、という気持ちが俺の中でむくむくと膨れあがっている。
 落ち着いてみれば、なかなかに気が合いそうなところもある。アインシュタインもそうだが、夕飯に並ぶ料理もだ。どうにも洋食の油っこさが苦手である俺を知らないだろうに、並ぶのは薄味付けの和食が多い。
 それでも、俺は彼に積極的に近寄ろうとはしなかった。
 (冷静に考えてみると、俺は俺の保身のために彼に近寄ろうとしなかったのだろう。それが家庭の雰囲気を忘れられなくなるという理由ではなくて、もっと恣意的で自己愛に満ちたそれだ)
 それから彼は数枚の皿を取り落とさないよう、慎重にテーブルの上に並べる。

「サンマ」

 彼はそれだけ言った。
 サンマは好物なのでとても嬉しかったが、なるべく動揺を悟られないよう、慎重に頷き、席に着いた。
 なぜか彼と夕飯を一緒にすることが日常にひとつに溶け込んでいる。特に会話もないし、テレビもつけないからあまりに静かで、食器に箸が触れる音にすら過敏になる。

「左近は」

 こいつは、俺のことも呼びつけにする。許可を出したわけではないが、注意したわけでもない。どうせたったの一ヶ月、と好きなようにさせている。

「俺が迷惑だったか」
「そりゃ、どちらかといえばそうでしょう。いきなりですから」
「そうか。悪かったな」
「別に、三成さんは悪くないでしょう」

 悪いのは態度なんだな。
 けれど慣れてきてしまったのか、丁寧に対応されることを想像したら妙に寒気がした。変な話なんだが。
 ふと、(おそらく俺と似たような境遇の)彼に愛について聞いたら、どんな答えが返ってくるだろうかと考えた。やはり俺と似たような答えが返ってくるのだろうか。いや、愛についてだけ聞くだけでいいのだろうか。もっと、根本的な問題から聞くべきではないか。

「三成さんは、言葉についてどう思いますか」
「質問の意味が理解できんな」
「たとえば、感情を表す言葉があるじゃないですか。嬉しい、悲しい、楽しい、とか。その感情は言葉になりきっているものと思いますかね」

 聞いてから、また後悔した。後悔先に立たずとはなんという名言。
 これではまるで、思春期特有の気難しい厭世的な雰囲気そのものではないか。説明ひとつ取ってもこのまとまりのなさ。これが衝動なんかではなかったら、もっと理路整然と説明できたものを(そもそも衝動でなかったらこんな質問はしないのだが)。
 箸を止めて、彼は少し考え、口を開く。

「そんなもの、どうとでもなる」
「どうとでも」
「そうだ。つまらなくても楽しいふりはできる。楽しければ心底それを表現する。受け手と投げ手のコミュニケーションの問題だ」

 そりゃそうだ。だからそのコミュニケーションの問題で、結局は『相手にゆだねる』ということになる。俺の放った言葉には責任が生じるが、相手がどう感じ取るまでは背負いきれない部分が確かにあるからだ。そこは相手の裁量を期待するしかない。けれど、それ以上はあるのか。俺が放った言葉以上の何かはあるのか。
 多分、ない。
 端的な話、俺の嬉しいと三成さんの嬉しいは同じとは限らない。媒体が違うという話ではなくて、そもそもの認識の話だ。そこで、相手にゆだねるという結論は最も危険な行為ではないのか。

「納得していないようだな」
「ええ、まあ」
「こんなものは人によって違う話だ。俺に聞いたところでなにも解決しない」

 そんなことは、わかっている。わかっているつもりでも、聞かずにはいられない。
 言葉に依存するような行為であるとわかっていても、結局それを言葉にするしかできないことと変わらない。

「じゃあ、そのことを抜きにして考えてください。愛ってどういうものだと思います?」
「愛?」

 まるで変質者かなにかでも見るような険しい顔で、彼は考え込んだ。
 その間に、俺は少し冷めた米を頬張り、サンマの塩焼きを食べる。それでも彼はなにも言わない。汁物を飲み干して、サンマが骨だけになって米が茶碗に残った数粒だけになっても彼は黙りこくっている。
 愛がわからない。そうだ、彼は愛がわからない(わかる人間なんてそうそういないんだろうけれど)。愛だけではないが、愛というものは一等難しいものなのではないか。『嬉』について『心が弾むような、楽しいこと』と説明されるのと『愛』について『誰かをとても好きになること』と言われるのでは納得のレベルが違う。前者はそこそこに納得できるが、後者はだめだ。けれど、たいていはこういう答えが返ってくるものだ。

「愛……、愛は、誰か、物や人を好きになるという観念のことだ」
「ならば、好きって言葉で十分では?」
「好き、よりも、重い。多分、とても重い。好きになるには好きなのだが、好きとは違う」
「ニュアンスで伝えられても、困るんですよねえ」
「こう言えば納得するのか? 愛するという行為は肉欲的欲求を満たすと同義だ」

 直球な答えだった。けれど、彼自身、顔中が猜疑に満ちていた。だから、これはこれで満足していいのかもしれない。





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