冷蔵庫には日々惣菜が増えてゆく。しかし、三成さんと俺の会話は増えなかった。
 俺は第一印象の悪さからあまり話しかけることをしなかったし、彼も彼でいつも機嫌の悪そうな顔をしているだけだ。別にそれはいい。人がいるだけでなんとなく気がまぎれるからだ。
 だが、最近は彼がいるということに慣れてしまってきたのか、ふとした瞬間に考えるようになってきていた。しばらく無気力でいたからその反動でまた精力的にあれこれを思案を繰り返しているのだ。その内容はやはり兼続さん、ひいては彼の残した愛だった。

「それ、なんて本ですかねえ」
「……」

 フルシカトされることも少なくない。
 けれど問答を繰り返したいわけではなくて、ただ矛先をそらしたいだけだから俺もあまり気にしていない。
 一度蒔いてしまった種は、根を張って勝手にぼうぼうと伸びる。それが米のように手をかけねば育たないようなものならよかったのだが、愛は雑草のようなものだった。どれだけ踏み潰そうともたくましく頭をもたげて俺に寄生している。抜いても、抜いても愛はいつのまにか新しい芽が吹いている。
 そこで、例の根底から覆す作戦に出た。土を枯らしてしまえばいい。というわけで俺はその土――つまり土台の養分を打破すべく頭を悩ませた。いつぞやかに考えた、言葉そのものである。
 感情は言葉というもので表現しきれるものなのか、という、ただひたすらに薄暗い懐疑的な問いだ。現実的に考えれば、それはできる。としか言いようがない。懐疑という言葉すらも感情の一部であるからだ。だが、全てではない。言葉というものは、感情の一部を音にしているだけで、決してそれだけであるわけではない。そういうものなのだ。
 妥協案のようだが、これ以外に言いようがない。そもそも、俺も言葉に依存している存在だから、あれこれと偉そうなことを言うのは奇妙だ。『言葉は感情をすべて表現できない』という俺の考えも感情であり、言葉だ。その実、考えというものはほとんどが感情だ。つまり、言葉イコール感情でもおかしい話ではないのだが。
 おかしい。
 俺は覆すどころか肯定してしまった(俺はなにがしたい)。
 愛がよくわからないし、あまり考えたくない。だから言葉にすることをやめようと思ったのに、まるで後押しするような結論だ。なんなんだ、これは。
 それもこれも、直江さんが突然現れて愛なんて言い出すからだ。それでもって進退窮まったとすら感じた俺は性急な張りぼての結論で力押しで直江さんに突きつけた。最後に、それを後悔して今もうじうじと悩んでいる。救えない。

「お前は、どうして俺に気を使う」
「はい?」

 アホだな、と自嘲していたところ、突然に三成さんが口を開いた。
 どこをどう取ったら気を使っているように見えるのか。いまいち理解できずただ一言で返事をするだけだった。

「俺よりもずっと年上であるし、再婚相手の連れ子ではないか。なぜ、敬語なのだ。名前もさん付け。別に直せとは言わないが」
「簡単ですよ」
「というと」
「仲良くなる気がないだけです」
「そうか」

 居心地の悪いものがあったのだろう。十歳も年上で、義理の兄である俺がさん付けに敬語であると。そのうえ、彼は居候の身だ。彼自身、そういった配慮はない。だからこそ、俺の下手に出る態度が気味悪いのだ。
 俺としては単純な話だった。親しくなろうとするならば、もっとフレンドリーに語りかけるなりなんなりする。その気がないから距離を置くだけだ。誰かはそれを冷たいと言うかもしれないけれど、俺として当然の話だった。親しくなろうとしない理由は俺にも定かではないが、このかわいくない三成さんが気に入らないだけ、ということなのだろうな。
 義理の弟になるからと言って親しくならなければならない理由が理解できない。これが、これからも長い間同居生活をするというのならば話は別だ。家でまで居心地の悪い思いなんてしたくない。しかし、俺はもう一人暮らしをしている身だ。彼と仲違いしていたところでなにも問題はない。

「俺もお前と仲良くする気はない」
「なら丁度いいではないですか」
「だが、父に仲良くするように言われている」
「なら、仲良くなったって言っておけばいいでしょう」
「嘘はつかない」

 なんとも、心を揺さぶる一言だった。嘘はつかない。その言葉の真偽はともかくとして、こうも力強く断言されると妙に感心するものがある。それは実行が難しいことだと知らない年でもないだろうに。年を重ねるたびに、人付き合いには嘘が必要だと思い知っていくものだ。高校生なんか、特に友達との付き合いを保つことを考えてあることないこと並び立てることに躍起になる。
 その言葉を鵜呑みにして考えると、彼はなかなかの好青年なのかもしれない。しかし、俺にとっての彼はクソガキである。

「そりゃ、ご立派なことで」
「嘘ではない。嘘が嫌いだからだ」
「好きな人は、いないでしょうね」
「それでも皆、嘘をつく。嘘をつかなければ自分の身に危険が及ぶからだ」
「人を助ける嘘もある」
「それは助けた自分がかわいいだけ。あるいは、嘘をついてまで助けたという恩着せがましい、もしくはそういう自分に陶酔しているようなものだ」
「おやまあ、手厳しい」

 なかなかに、大人びた意見だった。
 だが、彼も彼で、そういって人の気持ちを見透かしているような自分に酔っているかもしれないという可能性に気付いているのだろうか(または、彼の裏を見抜いた気になっている俺にも言える)。
 ここまでくると、俺も難癖をつけているだけの嫌な大人みたいでみっともない。
 本に視線を落とした彼は、それからほとんど一言も喋らずにその日を過ごした。

 彼がやってきて一週間近くは経っていたように思うが、まともに会話をしたのはこれが初めてといっても過言ではなかった。





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