多分、愛なんてものは偶像なんだろう。

「愛は自己満足にしかすぎないものだな」
「いきなりなんだね」
「誰かを愛している自分に恋している。誰かを愛することができる自分に安心する。誰かに愛を与えられたから他人を愛することができるという自意識。それが愛だ」

 唐突な俺の言葉に直江さんは対処しきれていないようだ。訝しげに俺の顔を覗き見て、なにか言いたげに口をとがらせる。
 愛についての盛大な煩悶はあっけなく終わりを迎えた。愛なんて(俺にとって)ただのまやかしだったということを思い知ったのだ。自分を愛するだとか、誰を愛するだとか関係ない。ただ『何かを愛する』という満足感にひたっているにすぎない。
 なぜこうも性急な結論にいたったか、なんて彼には関係がない。だから突然の俺の全否定に反感を覚えるのもムリはないだろう。だが、説明責任があるわけでもない。

「なぜそうだと断言するかな」
「小手先の愛うんぬんではなく、愛というものが生まれる理由がこれだと思っただけです」
「機嫌が悪いな」
「そんなことはないですよ」

 愛について考えはじめて、もう何日経ったかわからない。
 ある日、留守電に疎遠だった両親から連絡が入っていた。その内容が、離婚したとかそういう話だ。正月にも実家に帰らない俺だからそれほど険悪だなんてことなんて知らなかった。そしてあちらも知らせなかった(まあ、予想できない範囲ではなかったが)。
 愛なんてものは自分を美化するためにあるものなのだ。他人を愛するのはまず自分のためだ。だから結婚なんてものはたいていが失敗する。子供を愛するなんてのもただの押し付けだ。自分が失敗したからと子供にあれこれ口を挟む。それは愛ではない。第二の自分を育てているだけだ。
 すべてがそうとは言い切らない。だが、世の中のほとんどがこれだ。多数決社会であるこの世界ではつまり、愛とはそれであると断言しても問題はない。

「なにをそんなに余裕がないのか知らないけれどもな。そんなに簡単に結論してしまっていいのかな。現在に自分の意見が残るのだよ。後々、顔から火が出る思いをするだろうに」

 ごろごろとホットカーペットに寝転がりながら、直江さんは本を読んでいる。俺が小さい頃に読んでいたルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』だ。いつのまにかすっかりと現代に馴染んでいる彼は、横文字も理解するし服の着方ももう間違えない。堅苦しい態度が俺に緊張を与えると知ってからか過剰にだらだらと過ごしている。
 しかし言い様が妙につっかかる。『現在に自分の意見が残る』とは、なんだって遠まわしな表現なのだ。

「もっとじっくり考えてみてはどうかな。愛にはこれといった定義がない。だからこそ『自らの愛』を考える幅が広い。それを、そんな窮屈に収めてしまうなんて」
「だが事実でしょう」
「いいや、人間は他人を心底愛することができる」
「むりだな。誰だって自分が一番かわいい」
「ふむ……。確かに、鏡のようにはいかないだろうな」

 ぱたり、と本を閉じて起き上がった直江さんは、例によって正座をして俺の正面に体を直す。
 突然に鏡と言ったのは、きっと『鏡の国のアリス』の影響だろう。なにが鏡なのか。向き合ったときに、お互いの愛のレベルが同様とは限らない、といったところか。しかし俺はそんな話などしていない。

「なら島殿。無粋だけれどもその論理の穴をつこう。なぜ、人は人を愛することができるか?」
「幼少期に両親から愛されたから、人を愛することができると聞いたことがある」
「では聞こう。“誰が始まり”であるのかな」
「……」

 わかりやすく言えば、人が人を愛するには人からの愛が必要だ。けれど俺の言う愛は自己満足。他人を愛することができるという自己愛にしかすぎないというものだ。それならば、本当に人を愛することなんてしていないと同じ。愛を与えられなかったならば人は人を愛することができない。
 神という返答の方法もあるだろう。だが、俺はあいにくと特別に神とあがめている存在はなかった。だが、一つ、聞いたことがある言葉があった。

「愛は神である。神は愛である。つまり、本当に人を愛することができるのは神のみである、という見解は、どうでしょうかね」
「らしくない答えだな。それでもって、都合がいい答えだ。簡単だ。島殿の結論は間違っている。愛は断定するものじゃない。ましてや、個人のものでもない」
「なら、直江さんも間違っていませんかね」
「いいや、間違っていない。私は断定などしていないからな。ただ、漠然と自分の中にある愛を言葉にしただけだ」

 これじゃイタチごっこだ。喋っているうちに自分がなにを言ったのかも忘れてしまいそうだ。
 直江さんは自信たっぷりに背を伸ばし、俺の顔を見返してくる。どうにも俺が悪い、という雰囲気になってしまった。悪あがきだとは思うが、彼の愛に対し反論をしてみることにした。

「直江さんは、すべてを愛したいとおっしゃいましたね」
「言った」
「その中に、自分というものは?」
「私?」

 予想外だと言わんばかりに動揺を見せた直江さんは、わずかに視線を泳がせた。自分も含まれているのならば、そんな反応をする根拠がない。考えていなかった、あるいは自分など愛するに足らないということだ(もし後者ならば、俺の言う愛を否定する根幹になる)。

「受け売りですけれどね。他人を愛するならまず先に『他人を愛するという行動を行える自分を愛するべき』だそうですよ。命あっての物種と。直江さんで言うならば『愛するものを護る自分がいなくては始まらない。だから自分をまず先に愛せ』です。でも直江さんは、自分を愛していない」

 答えに窮したのか、彼は少し不機嫌そうで、また自虐めいたものすら感じられる口元だけの笑顔を浮かべた。

「私が私を愛したら、申し訳が立たないよ」

 どういう意味だったのか、気になったけれど直江さんは軽く頭を下げて、引き出しの中にさっさと入ってしまった。
 もう彼は来ないかもしれない。思い返してみると、稚拙な結論だったと悔やむ気持ちはあれど、やはり自分の間近な例を見るとそうとしか思えない。俺もまだまだ若いな、としか言わざるをえなかった。





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