「そこの青年よ。あなたは何かを愛する、ということをしたことがあるか?」
「……はい?」

 今日は厄日だろう。ええと、今日は仏滅だっただろうか(あれ、友引だ)。
 そんなことはどうでもいい。あまりに突然の出来事すぎて言葉も出ない。そして気味が悪いと思うと同時に奇妙にも腹立たしく感じてきたものだから、力の限り引き出しを閉めた。すると「フギイ!」などとその男は言って俺の視界から消えてくれた。
 一体アレはなんなのだろう理解できないし理解できないほうがいい。引き出しを押さえながら、耳障りなほどに高鳴る心臓を宥めすかす。
 ドンドン、と、引き出しが揺れる。そして中から「開けてくれ」という声が聞こえてくる。
 ……厄介だ。この世はなんとも厄介にできている。
 できることならば俺はこのまま何事もなく生きていたい。まだ二十六年しか生きていない。これから先の人生に気味の悪い思い出なんて引きずりたくない。

「危ないではないか! 指を挟んだりしてしまっては痛いだろう」
「挟まる心配があるんでしたらそんなところに入らないでくださいよッ」

 力には多少自信があったのだが、この気味の悪い思い出となろう男には敵わなかった。力ずくで引き出しをこじ開け、プリプリと怒りながら俺に説教垂れてくる始末だ。
 気味の悪い思い出を、今、この瞬間に刻んでしまった。俺の人生で一、二を争う汚点となるだろう。できることならば今すぐに忘れてしまいたい。

「なにも入りたくて入っていたわけではない。たまたま、ここに来てしまっただけだ」
「入りたくて入らないで、どうやってそんなとこに収まっちまうんだよ!」
「……もしや、この場所から姿を見せることは、この世界では失礼にあたる……のか?」

 さて、どこからツッコめばいいだろうか。
 これが噂のイタイコチャンなのだろう。生憎この手の人間に出会うのは初めてだ。フシギチャンならまだしも、イタイコチャンか。俺の手には負えない人種なのだ、と出会って一分ほどの今、俺は悟った。
 この世界では、と言うこの男は、変わった出で立ちをしている。白く細長い帽子を被り、動きにくそうな服で体をカチカチに防備している。そう、防備しているという言葉がふさわしい。胸のあたりから腹にかけて、叩けば音の出そうなナニカ。肩にも似たようなナニカ。手の甲には、俺の素人知識から観測するにコテというやつだ。お前はなにに命を狙われているというのだろう。下半身は引き出しの中だから見えないが、やりすぎた戦国時代、みたいな格好だ。
 この二十六年間、俺の培った常識というものは偏見でしかなかったのだろうか。目の前の現実が理解できない。

「失礼つかまつった。……ここから出たいのだが、手伝ってくれないか」
「え、あ、はあ。どうぞ」
「すまないな」

 どうぞじゃない、俺。
 なんで引き出しに収まっているイタイコチャンで時代錯誤の不法侵入者の手を取っている。お人好しにもほどがあるのではないか。しかし、頼まれると断れないというもの。
 男の手を取ってやり、もぞもぞと引き出し相手に苦戦している姿を見ながら、今ならこいつを縛り上げて警察にご馳走することもできるわけだと思ったが、俺を疑うそぶりも見せず、真剣に引き出しから這い出てくるそいつを見ていると、そういった気概は薄れてしまう。ほだされているような気がする。
 そして見事、床に着地することができたその男は、行儀よく床に正座をし、深く頭を下げる。気後れしてしまったが、俺も急いで床に正座し、軽く会釈をした(だから、どうして不法侵入者相手に!)。

「勝手がわからずあの場所からのご無礼、失礼した」
「い、いえ……」

 いかに行儀がよかろうと、こいつは不法侵入者である。そうやすやすと警戒を解くわけにはいかない。
 しかし言葉遣いまで妙に時代錯誤だ。服装も態度も言動も、この時代でなければあまり違和感はないかもしれないが、今は今だ。抜群の違和感をかもし出していることに変わりはない。

「む……、こ、この床……」
「え、なにか」

 別になんの変哲もないフローリングだ。最近は寒くなってきたからホットカーペットを敷いたりなんかしているが、やっぱりただの床だ。ホットカーペットの設定温度が高いのだろうか。
 ……いやいや、なんで俺が気を使う必要があるんだ。文句を言われる筋合いなんざねえ。

「あ、暖かい……。もしや今まで来客があったのか? 邪魔をしてしまっただろうか」

 俺に、「天然でかわいいヤツ」とこの男を小突く度量があったのならまた違う展開になったのだろうが、それはIFの話だ。IFといえど、一瞬で空恐ろしい妄想を繰り広げてしまった自分が残念でならない。
 さて、この男にホットカーペットという概念がないのか、それとも俺に探りを入れているのか、ただ単に茶化しているのか。この心底申し訳なさそうな顔つきでは判断しがたい。
 そもそもおかしいとは思わないか。俺は決してこの来訪者に好意的ではなかったはずだった。けれど彼はそれを知らずにご丁寧にも挨拶なんかして、俺を気遣っているそぶりをみせる。そして俺はどうしたものかと考える。この前提がそもそもおかしい。なぜ考える必要があるのか。好意的でなければさっさと追い出してしまえばいいのだ。

「いや、客はいなかったが。で、なにか用なのですか」

 それでも俺は、追い返せずにいるという不思議。





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