机に取り付けられている引き出しを順番に開け、中を確認する。それから薬品の棚を隅から隅まで調べ、天井をねめつけるように見渡す。女犬左近を追い払い、ロッカーもよくよく調査した。コードの先の電源や、床も見て回った。
「なにをしてるんですか」
「カメラや盗聴器を探している。あるはずなのだ」
くるくるとよく回る椅子の背もたれや座る部分、足など余すところなく調べつくす。
うまく隠されているのかちっとも見つからない。はやく探さねば。
「そんなのあるんですか」
「動くな!毛が抜ける!」
「カメラよりも俺の解毒薬作って欲しいんですがねえ…」
女犬左近は深いためいきと共にそうのたまった。女の犬の分際で俺に指図するのかと思ったが、いつまでもこの状態は厳しいのは確かだ。
俺は解毒薬を作るかと女犬左近の血液を顕微鏡で覗いたりなんやを開始した。
二度にわたる失敗に尊厳もプライドもあったものではない。見当違いな失敗ばかりで腹立たしいったらない。
前回、前々回と同じ失敗を繰り返すわけにはいかぬ。一つ一つ片付けていこう。
まず一度に女左近を男に戻しかつあの目障りな犬の耳を取り除くことがまとめてできる薬を作るのはいかに俺が天才であろうと難しい。
ならば、まず犬の耳をどうにかしよう。男に戻そうとして二度も失敗しているのだからそれはゆっくり研究すればよい。うむ、俺は今日も理論的だ。
となれば、さっき使用した薬をメモした紙が確か机の上にあったな。
「……」
バリバリバリ
人間の爪よりも長く鋭いけもののような爪を持った女左近。(耳だけじゃなかったのか)その女左近がおそらく俺の使用した薬のメモをバリバリと破いている。爪を研いでいるらしい。
「…なにを、している」
ひくりと頬が引きつったのがわかった。眉間にいくら力をいれてもその苛立ちは緩和されぬ。眉毛がつりそうだ。
「かっ…、体が勝手に…!」
「ほおう…」
机は女犬左近がいるから近寄ることができぬ。どうしたものか。
少しの間考えた俺は、ロッカーの扉を開け、中からモップを取り出した。なかなか柄も長いことだし、これならばギリギリ大丈夫だろう。
とにかく俺はそのモップを持ち、じりじりと机へにじり寄った。女犬左近は爪を研ぐのに夢中で気づいていない。ふん、いいザマだ。
女の、犬の、分際で!
「ふおりゃっ」
モップの柄をぎりぎりの端に持ち、なるたけ机から離れた場所に立ち女犬左近のいる机をダンダンと叩いて驚かせる。女犬左近は本当に犬のように驚いてその場から退いた。
しかし犬の毛が落ちているかもしれぬ。うかつには近寄れぬ。女犬左近は怯え気味に俺をジッと見ている。
…あまりアイツに動き回られると、俺がこの部屋で行動できる範囲も狭くなってくるな。犬の毛だらけにされたら本当にたまったものじゃない。
原材料も結局不明になってしまったわけだし、アイツを元に戻すのも相当困難なことになった。だからここでいっそ、がむしゃらに闇雲に元に戻すことに傾倒するよりも、こいつの被害をどれだけ小さく押さえられるか、ということを考えたほうがよいな。
おかしい、ここは世界で最も俺が生きやすい場所だったのに。いつからこうなってしまったのだろう。
「…ああ、消えてしまえばいい」
犬の毛がなんだっていうんだ。
机の引き出しに常備してあるトカレフを取り出した。安全装置が無いからすぐに使える。だから俺はコイツを選んだ。(しかし銃を使った経験などちっともない)
ずしりとした冷えた重みが手に沈む。握ると、少し痛い。俺の手のひらの皮はこんなに薄くなっていたのか。
そうだ、世界が笑うのだ。極彩色の世界が大口を開けて笑っている。なんともマヌケな光景だ。ガタガタとおぞましい笑い声が響く。頭が痛い。
貧弱などと言わせぬ。確かに長い間研究室にこもりっきりで筋肉など劣化もいいところだが、銃を持ち上げるほどの筋肉は残っている。後ろに銃口を向けると、いっそう笑い声が強くなる。
煩わしい。悍ましい。汚らわしい。
とたん、後ろに吹き飛ばされるような強い衝撃と耳を劈く轟音が俺を襲った。
そうだ。腕の筋肉はまだ持ちこたえても、足の筋肉がもたなかった。その場に踏みとどまることも叶わず俺は机に腰を強く打ち付けた。
気を失うほどではなかったが、立っていることがままならずその場に腰を下ろした。
「殿!」
あまり広くもない白い研究室にわあん、と声が響いた。
そのとき、どこか曇天としていた頭の中が明瞭になった。女犬左近が近寄ろうか近寄らまいか悩むようにその場で足踏みしている。できればその場でずっと足踏みしていてほしい。
「…犬女、血が出ているぞ」
「それは俺のことですか」
「顔からだぞ」
女犬左近の(俺から見て)左側の頬に切り傷が一つ出来ていた。なぜだろうかわからなかった。すでに(俺から見て)右側の頬に切り傷が出来ているからまるで左右対称だ。今度から右近とも呼ぼうか。
そこでようやく気づいた。
なぜか、薬品棚のガラスが割れている。危険な薬はそんな不用心な場所に保管していないからいいものの、やはり混合させるとどうなるかわからない薬だってある。それとガラスの破片を一身に浴びたのだ、女犬左近は。
「…犬女、お前」
「へ…?あ」
「子どもになってる」
ガタガタと音がする。