「よし、これならばどうだ」
女左近の血液から作り出した解毒薬を机に置き、ゆっくりと離れた。
どうにもさっきまでの鬱屈した気分が晴らされすっきりとしている。今なら女に近寄っても平気そうな気分だがそれはいかん。
女左近はなぜか真っ青な顔をしているが、なんだ。女の月のものでも来たのだろうか。そこまで女になっているのかと疑問に思って研究したいとも思ったが、俺はそこまで専門的なことは分野ではないし、なにより女に近寄れない。
…死体なら近寄れるのだろうか。まあ試す気もない。
「どうした、女左近。いらないのか」
「殿、絶対に近寄らないで下さいね」
「それはこっちの台詞だぞ」
いきなり訳のわからないことを言った女左近は、まるで俺を見張るかのように慎重深く俺を見ながらじりじりと机に近寄った。
なんなのだ。一体どういう風の吹き回しで俺がそんな扱いを受けなくてはならないのだ。意味がわからない。普通にわからぬ。
ようやく机にたどり着いた女左近は、俺から目を離さぬように手探りで薬を手に取り、よくよく確認もせずに一気に飲み干した。(そういえば女左近の着ている服がいつのまにかまったく違うものになっている)
「どうだ。元に戻ったか」
「……」
やはり数秒間、なんの変調も無い。また失敗かと肩を落とし先を憂い始めたとき、女左近の奇抜な声が響いた。(女の悲鳴は頭に響いて公害だ)
一体何事かと女左近を見た俺は絶句した。そうだ。人外の耳が生えていたのだ、女左近に。ここまで煩悩尽くめの薬を開発できるなんて、俺はその道の人たちに神とあがめられるかもしれない。そんなどうでもいいことを考えた。
「なんだ左近、それは。ふざけるな」
「それは、左近の、台詞です」
「ふざけるな!」
一体、俺の研究のどこが間違っていたというのだ!どこをどう間違えれば耳が生えるのだ!どうあがいたってそんなアホなこと!ありえぬのだ!
「ありえぬ!ありえぬのだ!貴様は、一体!なぜ人外への道をたどる!」
「わっ!ちょ、殿!近寄らないで下さい!お願いですから…!」
興奮のあまり女左近へ近づいて胸倉に掴みかかった。
俺は女が怖いのではなく、女に対し慢性的な憎悪を抱いているに近い。だから近寄れぬわけではない。(生死の危険はあるが)近寄りたくない。だがこの状況では嬲り殺したくなるのも必然だ。
おぞましくて触りたくもないが。
「殿!お願いですから!」
悲鳴に近い女左近の声に、やっと視界が明瞭になった。むずむずする鼻の感触に慌てて女左近から飛びのいた。
俺はなにをしていた。いくらカッとしたからといって、生死に関わると知っていながらなぜ女に近寄ったのだ。俺は死にたいわけではない。
友人のドラマチック本マグロだっているではないか。それに左近を元に戻さなくてはならない。どうかしていた。
「う、うむ…。とりあえず、また血液の採取からだな…」
「ええ、女性になるだけならまだ外に出れたんですけど、こんな耳が生えてしまっては…」
「ああ、おぞましい。そして帽子を被って俺に近寄るな。俺は犬の毛アレルギーなのだ」
「はあ…、いろいろ生きにくいですね」
「いいか、この部屋で耳を掻く行為などしてみろ。保健所に引き渡すからな」
「わあ辛辣」
そうだ。生きにくいのだ、本当に。
しかしこんな人型の獣、保健所が引き取ってくれるだろうか。いや、ならここの研究所に寄付するか。我ながら自分の発明が恐ろしい。よし、この開発は禁忌としよう。
己の発明が恐ろしく禁忌にするなど、夢のようだ。
コンコン
またこの非常事態に誰だ。陽気で暢気なノックをする輩は。
なぜ俺の研究室には非常事態に来客が多いのだ。実は俺のことを監視しているのではないだろうか。
それならば女左近のことが駄々洩れではないか。
ということは、女左近は本当に研究材料になってしまうではないか。むう、後で徹底的に調べなくては。
「誰だ」
「俺こそ天下の傾奇者だぜ!」
「何の用だ」
すぐにわかった。暑苦しいダミ声にやたらと大きい声。
この間研究材料として連れてこられたナンバーM98、ネーム傾奇者だ。一体どういう理由の研究材料なのかは俺の分野外だから知らぬが、たしかコードネーム義の担当だったな。
しかし本人が来ずに傾奇者が来るとは一体どういうことだ。
やたらと背が高く不躾にベタベタしてくるから俺は傾奇者がやってきたときはドアを決して開けない。
「義の旦那から、殿の旦那に預かりモンだぜー」
「そうか。そこに置いておけ」
「なんだよつれねえなあ。そういや、ドラマチック本マグロのダンナを見なかったかねえ。さっき会いに行ったら見当たらなくてなあ」
「いや、この間会った…、いや、いつだったか。昨日、さっき…、どちらだったか」
研究中は時間の感覚が希薄になる。だから今が何日か知らないし、ドラマチック本マグロがやってきてからどれだけ時間が経ったかもわからぬ。
しかしそんなに時間も経ってないと思うのだが。女左近に聞いてやろうかと思ったが、女左近は部屋の隅のロッカーの上で蹲っている。(動物化は進んでいる。しかしその行動はネコだろう)
「そうかそうか。悪かったな。とりあえず確かにココに置いておくぜ。じゃあな!」
傾奇者が去った気配を読み取り、部屋の前に置かれた届け物を素早く部屋へ引きずり込んだ。
適当な包装紙に包み込まれたそれは結構な重さであり、中身はなんだろうかと少しだけ心を躍らせる。べりべりと包装紙を破り去って中身をあらわにさせたとき、頬が緩んだ。
「なんです、それは」
「ふ…、気にするな。研究に関する報告書だ」
「それよりも俺の体を元に戻すほうがずっと大事ですからね」
「俺の本職はこっちだ」
未だにロッカーの上から降りない女犬左近を見上げ、笑った。