そもそも全くの他者である三人が、共通した一定の記憶を喪失するということはありえるのだろうか。おおよそ考えつかねえ。
飼育されている牛などが、仕切りの向こう側にういる隣の牛が妊娠しているのを見て、自らも妊娠していると勘違いして、本当に腹がふくれる想像妊娠なんてものもあるが、土俵が違う。過去の記憶を失った左近を見て、三成や兼続が「想像記憶喪失」にでもなったというのだろうか。
俺はともかく、幸村は三成や兼続によく懐いていて、しょっちゅうついて回っていた。その幸村は「想像記憶喪失」ということにはなっていない。
確かにこういうものは個体差があるとはいえ、いくらなんでも無理な話だ。
いい加減思考しない俺の頭に喝をいれようとも思ったが、その喝をいれる自分がいない。考えすぎていい加減、無気力だ。
今の俺の大きな目標は幸村のように「みんなを治療すること」ではない。(そもそもその『みんな』がいなくなっている)「そもそもの原因の究明」。それが一番だ。すべての根源を絶てば、という儚い希望でもある。
三成や左近を探し出すという選択肢もあるが、そっとしておくべきだと俺は考えている。
左近は記憶を失っているだけで、特別、人に害をなすような兆候は見られなかった。三成の女性恐怖症とそれによる交代人格の派生という妄想が一番のネックだが、この建物から逃げ出したということは、なんらかの事実に気がついたのだろう(自身の妄想に気付いたのかもしれないし、この歪んだ演劇療法に支配された世界にかもしれない)。
ともかく、この建物から逃げ出すという判断を下せるほど正気だったのだ(俺はこの建物の世界をとてもじゃないが、正気とは言えない。狂気が正気の上にあぐらをかいて、正気になりかわった世界だ)。だから、三成に関してもそこまで心配なことは無い。それに左近がついている。左近が女になったとかというものもきっと、目が覚めたんだろう、と思っている。あくまでも希望的観測の域は出ないが。
そもそもの原因は一体、なんだ。
なにがどうなって、こんなことになったのか。
きっかけは些細なことだったはずだ。三成の女性恐怖だとか、兼続の失脚、左近の記憶喪失(これに関しては些細ではないが)。それからどうして、こんな歪んだ空間に俺たちは身を置いているのか。
それは必然なのか。
幸村のカルテを放り出した。何度も読み返したせいかすっかり覚えちまったそれは、もはや役には立たねえ。
ドン詰まりの思考にため息をついて、息抜きに窓を開ける。いつのまにか夕方だ。最近はこういうことが多い。俺の中の時間の感覚が希薄になっていくのを感じ、これが狂いの一歩なのかもしれない。
ひとつ狂えばすべてがあべこべになる。気がつかねば確かに楽だろうが、そこで終わりだ。それ以上の『正常な』進歩や発展は望めない。
しかし兼続や幸村を見ていて思う。
どこからが『狂い』なのか。そもそも『正常』なものというのはこの世に存在しているのだろうか。
全てにおいて妥協点を置く。溺れてしまえばいっそう楽になる。
少し哀愁というものに浸ってみようか、と、自室へ向かった。
前までは特になんも無く整然としていた部屋は、いまや雑木林のように雑然としている。幸村の部屋にあった専門書やらカルテが散乱している中、踏まないように爪先立ちで移動する。
俺の足のサイズは中々でかいが、いちおう、俺の爪先ぶんのスペースはところどころにある。器用に、紙を踏んですべらないように気をつけながら飛ぶ。まだまだ若いな、俺も。
お目当ての本棚にたどり着き、一番下の段を覗くためにしゃがみこむ。
確か、ここらへんにしまいこんだ記憶があるんだがな。
蜘蛛の糸のような記憶をたよりに、その段の本を全部取り出すが見つからない。
おかしいな、ここにいれたはずなのに。しかし記憶違いなんてよくあることだ。ひとつ上の段も、もうひとつ上の段、しまいにはその本棚すべてを調べつくした。
が、無い。
この部屋の本棚はこれしかない。もらってからというもの、ずっと開いていなかった。扱いもぞんざいにこの本棚に押し込んだはずだった。
捨てたはずもない。
立ち上がり部屋を見回す。すると、忘れ去られたようにデスクの上に放り出された卒業アルバム。
ああ、あった。
やっぱり捨てていなかった、という安堵と、どうしてこんなとこにあるんだ、という不安で複雑だったが、あったことに変わりは無い。もしかしたら兼続や幸村が勝手に見たのかもしれない。
また床に散乱する本やカルテを器用に避けながら、デスクの傍に立った。卒業アルバムは日焼けして色落ちしている様子もなく、新品同然だった。
懐かしさに目をほそめながら表紙を見ていると、ふと妙な感覚に襲われた。
表紙は美しい桜を背景にした学校の写真で、ポップな字体で「NO TITLE」と書かれている。
こんな、表紙だったか?
長年見ていなかったせいなのかもしれない。しかしどうにもこの卒業アルバムに懐かしみを覚えることが出来ず、ただはじめて見るものを見ているようだった。
違和感を抱きながら開くと、その違和感が気のせいではなかったことがわかった。
「なんだ、こりゃ」
思わず、ひとり言をもらしていた。
卒業アルバムの中は真っ白だった。本来ならば各クラスの生徒たちの顔写真や集合写真、そんなものがひたすら続いているものなのに。
だが、俺の写真どころか誰一人の写真も無く、ただ真っ白なページが続くだけだった。
*
恐ろしい世界だ正常なんてものはこの世に存在しない俺はただあがくだけこの世界で俺は生まれて死ぬだれもかれも真実ではない偽りだらけどこへ行こうとも逃げたうちに入らない予定された世界。