俺は、幸村の壮大な予定図を半分も理解していなかった。今もまだ、わからないが。
(今さらだが)俺なりに幸村の予定図を読み解いていこうか、とようやくやる気になった。
幸村の様子を見てもらうのはおねねさんに頼んである。おねねさんはこの真田開放型病院の通いの看護士だ。奥さんなんてしゃれた相手もいなかった幸村は、どこかのツテだかは忘れたがおねねさんにおおまかな病院の管理を任せている。まあ、掃除だとか、患者(この場合三成や左近、兼続)の深夜の見回り、まれに訪れる患者の診察だとかが主な仕事だ。
ひとりじゃとても勤まんねえと思ったがおねねさんは腕利きだ。そつなくこなしている。(というのも、一般患者はあんまり訪れてこないからかもしれないが)
幸村の予定図、つまり演劇療法による影響、効果の期待。先にも思ったが演劇療法なるものは万能ではないと傍目に見ながら思っていた。俺は演劇療法というものは幸村が考え、作ったものだと思っていたが、調べてみるとマイナーながらにそういったものが存在していることは確かだった。日本では全く聞かないものだが。
本来の演劇療法というものは音楽療法などの芸術的なものを用いた治療のようだ。演劇という空間を利用し、「別の人間」へとなり、心の膿を昇華することだ。たとえば、なんらかの原因で感情が抑制されている人間がいるとする。怒りでも悲しみでも喜びでも。感情を抑制することがストレスとなって社会生活や私生活でも、さまざまなことに支障をきたしたときに、これが用いられる。
別の人間へとなることで、感情を抑制する自分ではなくなり、抑制された感情を吐き出すという効果が期待される。
こんな例もある。役者になりたいという夢を持って、演劇的訓練を受けていた人間がいた。その人間は即興劇(状況設定のみを指定し、その場のアドリブでなんらかのストーリーを綴っていくこと)をするたびに周囲からは高い評価を得ていた。だが、指導者はこう指摘した。「お前は即興劇をするたびに、必ずというほど怒っている。即興劇のたびに、必ず怒る、必ず泣く、など、そういうことに傾倒する人間は、日常生活で『怒りたくても怒れない』『泣きたくても泣けない』。『そうしてはいけない』と、そういった感情をせき止めていることが多い」
その人間は驚いた。その人間にはそういった感覚は一切なく、深層心理の問題だったからだ。指導者はその人間の感情を昇華させるため、「過去の自分」となり、いったい何に対し、怒りを覚えているのか、ということを丹念に突き止めていった。その人間にはどうやら家庭環境に問題があったらしく、『怒りという感情を培養する』環境で育ち、怒りの感情を自らで処理できず即興劇を自然と捌け口とし、アドリブに怒りというものが必ずプログラムされていたのだ。
これは演劇療法の応用ではあるが、基本には違いない。(このケースは『別の人間』ではなく『過去の自分』というものになっているため、よりいっそうディープな方法だ。それだけ、その人の深層心理がさらけ出されるものであり、場合によってはいっそう患者が辛くなる)
他にも、親しい人を亡くした悲しみを乗り越えるためであったり、身体障害者のためのリハビリの一環として行われる。
幸村は一体この演劇療法になにを求めていたのか。
この方法は本来、マンツーマンで行うことが理想のようだ。幸村のように放し飼い状態にすることは演劇療法とは言わない。
ならば、幸村の言う演劇療法とは独自の意味だろう。
考えられる意味は、「過去の情報(役割)を与え、それに関連して過去を想起させること」だ。これは左近に当てはまる。左近に、『(過去の)左近』という人間を与え、『左近』と親しい仲であった三成と会話をさせ、想起させることだ。
だがこれでは兼続や三成については全くもって話が通じない。左近に重きを置くならば三成や兼続にそんな役割を与えることは無意味だ。むしろ妨げにしかならない。それに、左近に『左近』と『研究者であり患者』という二重三重の役割を与えたことになる。
これは違う。
他に考えられる意味。正反対に、「非現実的な役割を与えることにより、現実の想起を促す」ということはどうだろう。患者は現実では考えられない役割を演じることで自己審問に導く。そうすることで三成の件に関しては説明をつけられそうだ。しかし左近の記憶喪失には全く持って無意味だ。むしろ、記憶の復活を妨げることになる。さらに兼続。兼続はもともと医師になるために勉強を続けていた。その兼続に似たような役割を与えることで、その役割(妄想)に没頭することは火を見るよりも明らかだ。
これも違う。
次に考えたことは、正当な演劇療法だが、幸村は三成や兼続、左近の心に鬱屈したものを見とめたということだ。そこで幸村は演劇療法という存在を知り、あいつらにその「感情を吐露させるための役割」を与えた。だかこれもおかしい。
なら、なぜ俺は知らないんだ。それならば俺だって幸村の意図することを汲み取ることは可能だ。第一、永続的にその役割を演じさせ続ける意味はなんだ?かえって危険ではないか。
そこで俺は考えた。
幸村が演劇療法を実施した意味は、あったのか?
と。
これは恐ろしい仮定だが、幸村はすでに早い段階から精神を侵食されていた。無意味に他人を弄び、ただの『自分は他者を治療し、改善させているのだ』という自己陶酔に浸っていた。その幸村の中のルールが崩壊した。兼続の瓦解、三成と左近の失踪だ。
そうであれば俺がいくら考えたところで納得のいく、筋道の通った理由は見つからない。
だが、幸村の考えていたことを示すものは無い。ただ、日々の経過を書き込んだカルテのみ。幸村の頭の中にその、複雑で無秩序な予定図があるのみだ。