殿に引きずられるようにして、俺はあの建物を出た。研究所なんてもんじゃなくて、どこにでもありそうな家。少し大きい金持ちの家、のようだ。

息も切れ切れに手をひかれ街中を走った。買い物袋を持った中年の女性や、学校へ向かうところなのか帰るところなのか、スカートの短い女子高生がたくさんいて、通り抜けるのに苦労した。

久しぶりの外は雨が降っていて、薄ら寒い。雲もどんよりと立ち込めていて幸先が悪いものを感じさせられた。実際、これからのことなんてまったくわからない。

人目も気にせず走り続けた俺たちは、誰もいない公園に入りようやく足をとめた。今の時間はわからないが、きっと雨だから誰もいないのだろう。太陽さえ見えれば、今が昼時か夕方かだってわかるのだが。

公園の中、屋根がついたベンチのスペースで雨をしのぐことにした。殿はベンチに腰をかけながら、俺を見上げる。雨にうたれて冷え切っているというのに頬は薄く赤い。走ってきたせいだろう。


「左近、疲れたか」

「大丈夫ですよ」


あの研究所(ではない、なにか)から、俺たちは逃げ出した。突然、夢から目がさめたように頭がすっきりしたのだ。理由はわからないが、想像するに殿の独り言がきっかけかもしれない。

殿は俺の体の細胞を変調させる薬を作って、俺はあたかも本当にそうなってしまったのだと思っていた。それは強烈な思い込みによる幻覚だったことに気付いたのは、あの建物の少し前。


『義に左近が見えただと!ありえん、ありえん。左近は透明になってしまったのに!』


殿のこの言葉に、はっとした。透明になったはずなのに、俺は俺の姿が見えていたのだ。おそるおそる、頭に手をやる。獣の耳はない。胸に目を這わす。平坦だ。体を見てみる。成人男性のもの。

このことを殿に言ったら、最初は全く持って取り合ってくれなかったが勇気を出して殿に近寄った。哀れなほどに女(に見えていた)俺に怯えていた。体が小刻みに震えていて、くしゃみが止まらない。ふと抱きしめたくなったけれども、そうはしなかった。


『殿、俺は男です。幻覚です、俺は男のままです』

『ばかを言うな!俺のっぶしゅっ』


俺は男だ。なら、殿の言うβ波とγ波というのはおそらく架空のものだ。本当は女ではない俺が近づいてそういう反応が出る。それは思い込みだ。


『殿、目を覚ましてください』


非常に危険な賭けだった。世間には想像妊娠なるものもある。思い込みでショック死なんてことも、ばかばかしいが邪険にはできなかった。それに、殿にはどうも女性に関連したなんらかのきっかけで非常に凶暴な人間へと変わってしまう。それが世間で言う多重人格なのかは知らないが。


『っぐしゅ、ぶしゅっ』

『俺は人間です、透けていません、喋れます、男です、人間です』


必死に幼子にするように、頭を撫でて言い募った。それが功を奏したのか、殿のくしゃみや震えはだんだんと収まり、驚いたように俺を、そして自分の手を見た。殿は殿のままで、なんら変調はない。殿の多重人格すら、俺の思い込みだったかのように思えた。

俺たちはまるで奇妙な劇中劇を演じているようだった。この奇妙な建物の中で、俺と殿は研究者を演じきった。いや、途中で放棄したのかもしれない。


俺たちは二人で、まるで愛の逃避行じみたことをした。



「左近、座らぬのか」

「誰かが追ってくるかもしれませんし」

「見ていようがいまいが変わらぬ。座って休め」



変わらないのは殿もそうで、偉そうに自分の隣を叩き、そっぽを向いてしまった。自分の表情が苦笑へと変わるのを感じながら、ゆっくりと殿の隣に腰を下ろした。

久しぶりに走ったせいか、腰のあたりがじわりと痛む。そうでなくとも最近は妙に疲れることの連続だった。


「一体、あそこはなんだったのだろうか」

「わかりません。でも、知らなくてもいいかもしれないですね」

「そう、だな。 俺の女嫌いは実際、ただの顕在意識レベルの問題でしかなかったのかもしれぬ」

「え?」

「俺は女が嫌いだ。 これだけだ。潜在意識に及んではいない」



殿の言うことがいまいち理解できなかった。どうしていきなりその話を持ってきたのだろう。また、なんの根拠があって。少なくとも、あそこにいたときは確実に女嫌いで在り続けた。それからここまで走ってくる間に、なにがあったのだろうか。



「あんな雑踏の中を走り抜けてきたのだ。女もいたというのに。けれどくしゃみも震えもない。つまり、意識さえしなければ問題ないレベルだ。俺は女嫌いだ、と強く意識していたから、女に近寄ると拒絶反応を出したのだ」


顔にはりついていた髪の毛をはらった殿は、うっすらと得意げにそう語った。そういうものなのか、という呆気なさは感じたものの、前例があるから納得せざるをえなかった。なにより、当人がそう思うのならばきっと気も楽になるだろう。

いつのまに飛び散ったのか、殿の頬には泥がついていた。親指のはらでそれを拭ってやれば、驚いたように俺を見る殿。そのすっとぼけた顔が、今までの緊張を嘘のように思わせる。


「殿、これからどうしましょうねえ」

「ふん、そんなのお前が考えるのだ」






道化師になりきれない役者


05/21