自分を医者だと思い込んでいた男、兼続殿。兼続殿はある日事実に気づいてしまった。
そのとき丁度部屋を訪れた慶次殿が、錯乱状態の兼続殿を卒倒させたからよかったものの、あのまま気づかずに放置していたら恐ろしいことになっていたかもしれない。具体的にどういうことになっていたかは、予想することは難しいけれども、兼続殿自身に危害が及んでいたかもしれないし、周りの人へも危害が加わっていたかもしれない。
私は自分の想像に恐ろしさを感じた。
「兼続殿は今、どういう状態ですか?」
「今は落ち着いて眠ってるさ。三成には『体調が優れないみたいだ』って言って帰ってもらったよ」
「そうですか、ありがとうございます」
兼続殿は自身を医師と思い込んでいた。いや、実際に医師としての勉強に励んでいた過去があったからこそ、そういう思い込みをしてしまったのかもしれない。それはまだ原因不明で、現在解明中だ。
彼のアイデンティティを守るために、原因がわかるまでしばらくは医師としてそのまま泳がせていた。(いや、彼にあなたは医師ではないと言っても容易には受け入れられないでしょう)そして、彼のアイデンティティが崩壊してしまったとき、彼の精神がどうなってしまうのか想像もつかなかったからでもあった。
けれど、実際に恐れていたことが起こってしまった。彼の患者役であった三成殿がその事実を突きつけてしまった。
自ら手塩にかけて診てきた友人兼患者にそう言われ、彼は相当焦ったのでしょう。
彼のアイデンティティは瓦解した。
「とりあえず今日から私が兼続殿を担当しますね。慶次殿は三成殿と左近殿をお頼み願えますかね」
「俺が?」
「ええ。これは兼続殿から渡された三成殿に関することです」
「んー、いきなり担当変わって平気なのかねえ」
慶次殿に、兼続殿のメモを手渡した。しばらくそれを眺めて、慶次殿はあごを撫でながら唸り始めた。
「左近が女になって、こどもになって、獣の耳が生えて、言葉を失い、心を閉ざし、透明人間になっただって?」
「そう、言っていたそうです。しかし兼続殿が見たときは左近殿は間違いなく男だったそうなので…、幻覚でしょうか」
「左近が大人しくしているってのもなあ。んー…、わかった。様子を見てくる」
「お願いします」
私は慶次殿に頭を下げる。慶次殿はいつものように豪快に笑いながら、ぽんぽんと私の肩を叩いて部屋を出て行った。
本当は、慶次殿が兼続殿の担当であった。あまり医師らしかぬ言動や行動に、兼続殿は慶次殿を医師と認識していなかったようだった。実際は、逆だったのだ。兼続殿こそが患者である。
さらに言えば、兼続殿は三成殿を多重人格だと思っていたようだが、違う。
三成殿の症状は、女性に対する慢性的な恐怖心。それだけだ。
ならばなぜ兼続殿は三成殿をそう勘違いしたか。ひとつは、三成殿はいわゆるツンデレキャラクターで、人によって態度が一変するということが考えられる。たとえば、兼続殿にはツンで、左近殿や私にはデレ。その違いが顕著だったから。もうひとつは、三成殿の女性恐怖が悪化したせいで、女性に対する態度が酷くなったからということも考えられる(それを兼続殿は女性に対し凶暴的な交代人格、と認識したのだ)
最後に、兼続殿自身、三成殿にほどこした催眠療法に後々欠陥を見つけた、ということが考えられる。それから絶妙なタイミングで三成殿の女性嫌悪が悪化した。そうして兼続殿は三成殿に交代人格が現れたと思い込んだ。人の思い込みとは強い力を持っているもので、その兼続殿の思い込みは三成殿をも汚染した。
しかしなにぶん、私の知らないところで起きていたことだから確証は無い。
三成殿にもう一人の人格がいると思い込ませるメリットは無い。私はまずその思い込みを解消させるために三成殿の担当だったのだが、兼続殿が定期的に三成殿の治療もどきをしているのでほとんど無意味だった。
さて、三成殿の体について。β波とγ波というのは兼続殿が三成殿にした嘘のものである。三成殿は女性に近づくとくしゃみがでたり、吐き気を覚えたりするのをβ波とγ波の干渉と認識している。そして生命にも関わると。
しかしもちろんそんなことはなくて、それはただのストレスによって現れる症状だ。
ならばなぜ、そんな嘘をつく必要があったのか。それは三成殿を女性から遠ざけるためだった。三成殿の女性嫌悪はどんどんと悪化していって、このまま進んでいけば女性を見るだけで斬りかかってしまうことも考えられたからだ。
兼続殿には、β波とγ波が存在することにして、巧妙に別人格(もちろん存在しない)の存在を隠したらどうでしょうか。とふっかけた。翌日、三成殿はありもしない周波について真剣に考えていた。そして完全に俗世間から切り離された生活を始めた。
こんな壮大な嘘をついていると肩がこる。いつかボロが出て、なし崩しになるかもしれない。
とりあえず、医師としての自分を失った兼続殿がこれからどうなってしまうか。そればかりが心配であった。それから三成殿の方もだ。
演劇療法。それが私の考え付いた治療だった。
患者たちになにか役割を与え、それを演じさせる。設定は個人個人違う。三成殿は研究者であり、患者でもあった。兼続殿は医師でもあり、三成殿の友人であった。私は三成殿の同僚の研究者であり、兼続殿の後輩の医師でもあり、そして、箱庭を操る医師だった。
ふと考えれば、私もなにか、箱庭療法を受けている人間のように思える。それはありえないことだけれども。
コンコン
「はい」
「入るぜ」
部屋がノックされた。答えれば、慶次殿の声。いつもの間延びした楽しげな声音ではなくて、少し切羽詰っている声音に聞こえた。
「どうかしたのですか?」
「今、三成の部屋に行ったんだが」
慶次殿は一拍置いた。
「いなくなっていた」
このとき私は思った。
もしかしたら、本当に、私の見ていた箱庭は箱庭の中の箱庭で、私も慶次殿も箱庭の中で演じていた人間だったのかもしれない、と。
兼続殿の覚醒を皮切りに、私たちは現実に帰ってきただけなのではないか、と。
「なにが真実で、なにが虚偽なのだろうか。目に見えるものが、真実なのだろうかその眼は真実を映しているとは限らない。私の見ているものが、あなたの見ているものと同じとは、限らない」