ひとり、先をゆく兼続の傘で隠れた背中を見つめ、三成は思案した。

(これが、義とやらなのか。女は俺のこと、そして暴漢に襲われたこともすっかり忘れてしまった。何事も無かったように、女は帰っていった)

 雨水が頬を伝い、ぽたりと落ちていく。むず痒さに頬をかいた三成は、後ろを振り返った。女の姿はとっくに無く、雨にうたれ揺れる草木が取り残されるように佇んでいる。
 兼続は日記蒐集家としての手腕を発揮した。女の目を覆うように、額に手をあて、やがて淡く光る女の『記憶』が抽出された。少し糸を引いた『記憶』に、兼続はちょっと首をかしげ、勢いをつけて女から『記憶』を引き剥がした。その様を三成は黙ってみていた。

(俺ならば、見られてしまったなら喰むことしかできない。しかし、こいつは必要な日記だけを奪うことができるのだ)

 一種、感心した三成は先ほどとはまったく違う目で兼続を見ることができた。先ほどまでの若く青い蒐集家かけだし、という印象は薄らいだ。けれども、まだ生き生きと自らの使命、と燃えるその瞳を三成は解せなかった。

「三成、風邪をひくぞ。はやく入れ」

 兼続は雨にうたれたままの三成を振り返り、自らの隣を示した。
 傘に入れということだというのはわかったが、三成は近寄ろうとしない。どんどんと雨脚が強くなり、ずぶ濡れになっていく三成を見た兼続は、つかつかと三成に歩み寄り、傘に入れてやる。
 三成は兼続の意図が理解できずに、ただ警戒するように兼続の顔を見上げている。
 いくら印象が変わったといえど、昨日今日会ったばかりの他人である。容易に心を許さない三成に対して、兼続は心を広く接しているようだった。おそらく、自分を育てたひと以外の初めての蒐集家ということが、兼続の意識を三成に集中させているのだろう。

「ああ、こんなに濡れてしまって」

 兼続が懐から手ぬぐいを取り出し、三成の頬を優しく拭った。こどもの面倒をみる母親のような手つきで、三成は拒絶することなく享受した。

(あたたかい。ひとの手は、こうもあたたかいものだ)

 三成は、忘れていた感覚の心地よさに目を閉じた。長らくひとりで流浪していた三成は、特定のひととの付き合いが無かった。ひとに触れるときはひとを喰むときが圧倒的に多く、感情もぬくもりも存在しなかった。

「ともかく、私の家に戻ろうか。着替えくらいならあるぞ」

 三成の水を吸った髪を手ぬぐいでひとなでし、兼続は三成の手首を掴み歩き始めた。手を引かれては歩かざるもえず、傘の下、三成はひたすらに足を動かした。半ばうつろに歩きながら、三成は兼続の顔を見上げながら考えた。

(この男、眠っていたはずなのに、わざわざ俺を追いかけてきたのか)

 まさか兼続が現れるとも予想にもしていなかった三成は、今さらながらに驚いていた。すっかりと眠ってしまった兼続を見て、三成はこっそり忍び出たのだから驚くのも無理はない。
 どうして兼続が三成の元までやってきたのか。三成は皆目見当もつけられないまま、兼続の家を目に留めた。




 家に上がってすぐに、三成は玄関で待たされた。濡れているからという理由で、家に上げてもらえなかったのである。
 ぷるぷると頭を振り、水を掃うが濡れた髪が顔に張りついたため、三成はただ立ちすくんで待っていた。

「よし、これに着替えるといい。今着ているものは干しておこう」

 ぎいぎいと床を軋ませ兼続が現れた。腕にかけていた寝間着を三成に手渡し、着替えるように催促する。しかし三成は寝間着を受け取ったまま動かない。いくら同性であろうと、やはり着替えを見られるのは憚られたのだ。
 ためらう三成に、兼続はようやく気づいたのかそそくさとその場を離れた。
 兼続が居間へ入っていったのを視認すると、三成はいそいそと着替え始めた。背に腹は変えられぬとは言ったもので、濡れたままの姿でいるのはいくら夏でも薄ら寒かった。

「ふむ」

 素早く着替え、今まで着ていた着物がどれほど水を吸って重たかったかを実感した。水を吸った着物を玄関でぎゅう、と絞るとぼたぼたと水が溢れてくる。
 小脇に濡れた着物を抱え、三成は履物を脱ぎ、ようやく床に足をつけた。心なしか軽くなった体に満足し、三成はぺたぺたと音を楽しむように廊下を歩く。少しほこりっぽい廊下なのが気になりはしたが、雨がしのげるだけでも立派なものだ。と、思いなおした。

 静かに障子を開け、居間を覗くと兼続が船を漕いでいた。静かに畳を踏みしめ、三成は兼続の近くに腰を下ろした。起こそうか起こさまいか悩み始めたころ、三成の気配に兼続は慌てて目を覚ました。

「ああ、すまない。少し眠っていた」
「無理もない。もう外は白んでいるからな。いや、わざわざ探しにきたのか、すまなかった」
「いやいや。私は三成に興味があるのだ」
「興味だと?」

 空気の流れが少し変わった。

 兼続は三成の濡れた着物を受け取り、縁側に立った。
 三成の言うとおり、外はだいぶ白んでおり、鳥がさえずりと共に通り去った。縁側から降り、物干し竿に三成の着物を干しながら、兼続は頷いた。

「遊戯蒐集家とはなるほど、ひとの人生をまるまる喰むものだ。ひとの人生を遊戯に喩え、蒐集家の不死の視点の皮肉であることもおもしろい」

 着物のしわをていねいに伸ばしながら兼続は言った。
 三成にはその兼続の興味の示し方がわからなかった。
 遊戯蒐集家である三成にとって、そんな言葉遊びは暇つぶしにもならない。ましてや、二百年もそうして生きているのだ。しかし、違う蒐集家である兼続から見ればおもしろいことなのかもしれない。三成はそういうものなのか、と首をかしげた。
 縁側からまた戻ってきた兼続は、寝間着の裾を押さえ、三成の前に正座した。

「しかし、義ではない」
「また義か」

 正直、三成は辟易した。寝所を抜け出した挙句、ひとを喰みようやく納得した事象にまた回帰したからだ。しかし少しくらいは最初と印象が違っている。

(確かに、この男のように日記を喰むことは、使い方によっては『義』となりうるのかもしれない。しかし俺はどうだ。ひとそのものを喰む俺がどうあがこうが、『義』にはなりえない)

 少なからず三成は兼続の義を理解したようだ。しかしそれは兼続にのみ当てはまる義で、三成とは決して相容れないものだ。三成はそう考えている。

「いやしかし、先ほどの蒐集は捉え方によっては義であった」
「? わけがわからない」

 一転して三成を義と言う兼続に、三成は混乱した。義ではないだとか義であったとか、いたずらに三成の混乱を煽ぐ兼続に、少なからず苛立ちを覚える。自然と語調も強まった。

「あの女性を、暴漢から救ったことだ。しかし、見られたからといって女性を蒐集することや、暴漢を蒐集してしまうことは、不義だ」
「俺は日記蒐集家ではない、遊戯蒐集家だ。見られたならばまるまる喰むことしかできぬ。日記を抽出するお前とは違うのだ」

 融通のきかない兼続に、三成は強く言った。さらに、まだ雨に打たれていたときに考えたことをまた考えるということにも苛立ちを感じている。

(そもそもこの男、俺がひとを喰む理由も知らずになにを言っているのだ)

 語る気も無い、ひとを蒐集する理由を盾に、三成は自分をなだめすかした。自分がひとを蒐集する理由を言えば、この男はきっと止めるだろうし、不義だとか言うのだ、三成はうっすらと感づいていた。

「簡単だ。必ずしもひとを蒐集する必要がないのが、蒐集家の不思議なところだ。ひとなど蒐集せず、ただ生を全うすればいい」
「簡単に言うな」
「なぜだ」
「俺はひとを喰む。そのために旅をしている」

 三成は憮然とした態度で兼続を諌める。しかし兼続はさも自分の提案が義だと言わんばかりに意気込み、拳を握った。

「なら、もっと、義について考えてみればいい。自分の義の果ての結果がそれならば、納得できるだろう」

 どうやら兼続はよほど三成を義の道に染め上げたいようだ。
 三成はうんざりとしてそろそろ眠りたいと思ったが、熱くなってしまった兼続はどうやら眠気など忘れてしまっている様子で持論を展開している。
 自分なりの基準を持ってひとを喰み続けていた三成は、少し不愉快に思った。

「俺は義に生きる気など、さらさらない」
「いやしかし、蒐集家となったのもまた奇縁なことだ。せっかくのその生を無駄にすることなどないだろう」
「せっかくの生、だと?」ぴくりと三成の眉尻が上がり、鋭い眼光で兼続を睥睨する。「そもそも俺は、これほどまでに疎ましい生を、心底怨んでいる」

 三成は鼻息も荒く、それきり黙り込んでしまった。









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