(義、だと? 意味がわからない)
安穏とした闇を歩むひとがいた。三成である。
三成は頭にしつこく響く声に苛立ちを隠さずに、道端の小石を蹴り上げる。吹き飛んだ小石は木の幹に撥ね返され、三成の苛立ち治まらぬ様子の足元へ帰ってきた。それを一瞥し、また小石を蹴る。今度は何にも邪魔されずに飛び、音を立て地面に転がった。
兼続が眠ったのを見計らい、こっそりと寝床を抜け出してからというものの、三成はずっとこの調子だった。
これは三成の悪癖と言ってもいい。ひとの意見が自分の型にはまらなければ、容易には受け入れられない。三成にとって知らぬ人の助言はただの“ちゃちゃ”に変わらない。生来の想像力の欠如がそれを助長していた。
(義など、単なる建前となにが違うというのだ)
落ち着かない様子で小枝を拾い、がりがりと地面をえぐりはじめた。
そもそも話は、三成と兼続が自己紹介を終え、談話を始めたところへ溯る。
「兼続は、どうして日記蒐集家になどになったのだ?」
やや尊大とも取れる口調で、三成は問いかけた。突然の問いになのか、はたまた既に忘れてしまったような問いに対しなのか、兼続は唇をすぼめ考えるそぶりを見せる。それから片手で頭を抱え、もう片方の手で物を整理整頓するような動きをしてみせた。忘れてしまった、という様子に三成はにわかに呆れ顔を作った。
「ん、忘れてはいないぞ。ただ、なにから説明したらいいか、と」
「そうなのか」
兼続の言い分を上の空で聞き流し、『なぜこの兼続という男がこの道を選んだのか』という想像をすることにした。見れば兼続は難しい顔をしてなにやら呟いている。答えを聞けるのはもうしばらくかかるのだろう。と見越し、三成もまた深く考えた。
(不老不死を願ったのだろうか。はたまた、いたずらにひとの記憶を欲したのだろうか)
散々くり返してきたが、三成には想像力が欠けている。
日記蒐集家の兼続の心情を想像することはすぐに行き詰まった。
三成がさじを投げたのと入れ違いに、兼続が声を張り上げた。その兼続の声量に三成は思わず体を震わせ、兼続を警戒した。
三成はどちらかといえば静寂を好むたちである。今の、どちらも押し黙った空間は、多少の気まずさはあれど心地良さが勝っていた。その空間を壊した兼続を三成は訝しげにのぞき見た。
「私は、三十年前に小さな川で拾われた」
兼続は懐かしむようにひざを撫で、口を開く。三成は先ほどのように押し黙り、じっと兼続の言葉に耳を傾けた。
「数えて二十三の年、と、拾ったひとは言っていた。定かではないがな。というのも私には記憶が無かったのだ。名前も、年も、そのひとに与えられた」兼続は崩していた足を、再び正座にした。表情はとても堅いものである。「そのひとこそ、日記蒐集家だった。記憶の無い私にたくさんのひとの記憶をくれた。私は嬉しかった。なにもなかった私に、年と、名と、記憶が与えられたのだ。なにも書いてないまっさらな紙に、どんどん吸い込まれていく墨のように、私は多くを得た」
そこで兼続は一息ついた。三成もまた、自然と浅くなっていた呼吸を整える。
(俺は、なにを緊張している)
肩の力を抜きながら三成は自問する。三成は、ひとの身の上話など聞く機会も無かったし聞くことでもないと思っていた。しかし、珍しい境遇の兼続に自然と野次馬的な興味が芽生え、貪欲に続きを欲している自分を嫌悪した。
「しかし、次第と求めることしか出来ぬ自分にもどかしさを感じたのだ。私の他にも、記憶を失くし大きな穴ができてしまったひとは大勢いるに違いない。ならば、私自身も日記蒐集家となり、悲しむひとたちを救う手助けをしようと決意した。それが、私が日記蒐集家となった理由だ」
ぱちん、とまるで扇子を閉じるような軽快さで切り替えた兼続は、微笑みを浮かべる。
三成はこの男の微笑みがどうにも好きになれなかった。一種、韜晦的な笑みで何者にも心を読ませない、はぐらかしだと三成は考える。だからといって本心をさらけ出してほしいわけでもない三成はあえて口にはしなかった。
「義、だ」
「義?」
一転していたずらっぽい笑顔を浮かべた兼続は、自信満々に言う。聞き慣れない単語に三成はおうむ返した。
「義だ。私は、自分の受けた義と愛を少しでも分け与えたいと思っている」
(なにを言っているのだ)
三成は困惑し、兼続の目を見た。それは人に長らく語ることの無かった自身の思想を披露していることに輝いている。さらに三成は混乱した。
「私は、私の全てを賭して、義を貫くのだ」
三成はむしゃくしゃする胸を抑え、小枝でえぐった地面を見る。乱雑に『義』の文字がいくつも掘られている。瞬間的に三成の眉間には縦皺がいくつも刻まれた。麗人の怒り顔には独特の威圧感があるもので、なまじ冷静だったぶん、三成の迫力は相当なものだった。
『義』の文字を足で踏みにじり、三成はぽんぽんと手をはたく。二百年も生きてきた三成だが、思考も所作も少しこどもじみたところが抜けていない。これは三成の不思議なところだった。
夜の、湿った風が吹き抜ける。体中がベタベタとする気色悪い感覚に、三成は口をへの字にし、邪魔そうに髪をはらった。
(嵐がくる)
長年の勘ともいえるそれで、先を案じ、憂いた。
嵐といえば、確実に雨風がしのげる建物が必要であり、三成は無一文に近いため宿をとることはできない。三成の念頭に、兼続の家に長居するということは毛頭ない。
めんどうだ、とひとり呟き、兼続の家へ戻ろうと踵を反した三成の耳に、ひどく甲高い声が響いた。
(なんだ、女の声か?)
闇も深い深夜、町はずれの寂しい場所での悲鳴に、少なからず恐ろしさを抱いた。三成の場合、幽霊の類は全く信じていないため、物取りや変質者の懸念だった。
むやみにいさかいに首をつっこむものではない、と三成はすぐに歩き始めた。しかし、悲鳴はいっそう大きくなり、小刻みの足音とともに近づいてくる。面倒は放っておいてもやってくる、と、大きなため息を抑えきれなかった。
三成は振り返った。
必死の形相で走る女と、余裕の表情で女を追いかける男が目に入る。女は三成を見つけ、地獄に仏と言わんばかりに駆け寄った。
「――――」
女の言葉は支離滅裂で三成はちっとも理解しなかった。それでも女の鬼気迫る表情や口調に、三成はなんとなく悟った。
(下卑た輩だ)
女を追いかけ、やってきた男は三成を見留め、一瞬たじろいたが、華奢な三成を見てまた余裕の笑みを浮かべる。それが、三成は気に食わなかった。男の歪んだ面も気に入らなかった三成は男を喰むと決めた。
完全に腰を抜かしてしまった女を背に、三成は男に近寄った。手を差し出した三成は、男を完全に分解し掌ほどの大きさにして、みるみるうちに呑みこんだ。男は跡形も無くその場――ひいてはこの世から消えてしまった。
(この荒んだ世に、義なんてものは役に立たない。ひとは、義などというまやかしで腹もふくれぬし、渇きも癒えぬ)
表情も変えずにそう考えた。ようやく自分の思想を裏付ける事例に出会え、ある意味では満足していた。
ぽつぽつと、まだらに雨が降り始めた。
その音に混じって一際高い悲鳴が響いた。三成に助けを求め、腰を抜かしてしまっていた女だ。女を見て、少し考えた三成は女も喰むことにする。
一歩、女ににじり寄る。女は気でも違ったように叫んでいる。耳が痛くなりそうだと顔をしかめる。
「人喰い鬼っ、――」
女の言葉に、唯一三成が理解できるものがあった。
人間とはかくも独創的な要素はなく、語彙に乏しい。三成は逆に哀れに思った。そもそも、二百年という時を生きている三成とせいぜい五十、六十年しか生きない人間とを比べるのはお門違いだ。ましてや、目の前の女は若く、二十や三十そこらしか生きていないはずである。
女に手を差し出し、三成は意識を指先に集中する。必死に這うように逃げる女だったが、混乱のためか思うように進まない。差し出した袖に、雨が染み込み三成は気が散ってしかたなかった。
「待て、三成」
三成の名を呼ぶ人間が現れた。
突然のことに面食らった三成は、女を喰むことを一瞬、忘れてしまった。
一体、誰が邪魔をしたというのだ。気分を悪くした三成は振り返り、声の主の姿を目に留める。いよいよ本降りになりそうな雨を配慮したのか、大きな傘を差している兼続であった。
「喰むことなどあるまい。私が日記をいただこう」
06/23