雲がすっかりと消え、雨があがったころには太陽はほとんど沈みかけていた。鳥が鳴き、やがて蝉がじりじりと体を震わせはじめる。

「俺はひとには戻れぬ」

 三成は縁先に腰掛け、目を側めて、隣で同じように座っている左近を見る。爪先で地面の石を蹴り飛ばし、じわりとした痛みを感じる。それでもひとによくにた存在であるだけで、ひとではないのだ。石はころころと転がり、畑のなかへ入り、停止した。

「だからこそ、余計にひとを美化して見ているのかもしれん」
「いや、ひとのことを美しく見れるひとというのは、本当に心が美しい証拠ですよ」
「俺の心が美しいわけあるまい。俺は」
「だから、表面的な心ではなく、もっと深い心について」
「心の、もっと深い?」

(表面は外皮、内面は心。その心に表皮と中身があるというのか)

 新たな発見に三成は驚き、いったいどういう構造になっているのか思考を巡らせる。しかし、どれだけ考えても奇天烈な図面しか浮かんでこず、首をひねらせた。

「ええ。義について思考する心も」
「お前の言うことこそ抽象的だな」
「それもそうだ」

 左近が笑い声をあげ、三成は穏やかに笑う。笑う回数が増えてきたことを三成は気付かなかったが、兼続はよく知っていた。兼続と会った当初は、三成が笑っただけで兼続は驚いたのだ。
 そこで左近はあっ、と叫んで立ち上がり、居間へ小走りで向かう。左近を目で追っていた三成は、左近が手に持っているものを見て目を皿にした。

「それは」
「血ってのはなかなか落ちないんですからね。これはあんたに贈ったものですから」

 左近が手にしていたのは、三成がつき返した紅梅の羽織だった。現実味のわかない様子で、三成はそれを受け取る。手で洗ったのか、汚れは落とされ、几帳面にたたまれている。

「あんたは自分のことを知らない。地味な色よりも、もっと明るい、こういった色が似合う。本当にだ」
「……受け取っていいのか」
「もう受け取ってるじゃないですか」
「……俺が、もらっていいのか」
「そのために渡したんですよ」
「すまな……、いや、ありがとう」
「いいえ」

 三成は膝をかかえ、上から羽織を羽織る。塞ぎこむような格好になったが、気持ちの上ではむしろ、開けっぴろげに、なにか思わぬことを口走りそうなほどであった。主にではなく、自分へというものに三成は怡悦の限りだった。そして同時に、自分は随分と辛辣なことを言ったという自責の念に駆られる。

「俺は、お前を傷つけたな」
「いいえ、そう思われてもしかたのないことだ。それに、ほんの少しでも、そういった下心みたいなものがあったのかもしれない」
「……悪くない。ひとは常に己の矛盾に苛まされ、生きるのだ」

 三成の隣にまた腰を下ろした左近は、笑った。三成はいたって真剣だったせいか、ひとつも笑わずにいる。むしろ、三成にはなぜ左近が笑ったのか推察しようとすらした。
 橙の空を見て、三成はそろそろここを出ようと考える。しかし、その前にひとつ聞いておきたいことがあり、最後の問いをすることにした。

「これから、どうするのだ」
「考えちゃいない。三成さん、あんたは」
「この地を離れる」
「どうして」
「どうして? ……さあ、どうしてだったか」三成ははぐらかす。
「自分が死ぬための旅ですか」
「そうかもしれないな」

 曖昧な答えばかり返す三成に、左近は眉を歪ませる。頬杖をつく三成の横顔は、憂い気に目が細められ、眉はなんの感情も表現せず、口はただ眠っているように閉じている。何も考えていないようにも見え、同時に深い思慮があるようにも見えた。
 三成は羽織がずり落ちぬように押さえ、ゆっくりと立ち上がる。

「そろそろゆく。世話になった、本当に」

 次の言葉を紡ごうとした三成は、驚きで言葉を失った。左近の手が三成の手首を握り締めている。強くはないが、決して弱くない力加減で、三成は振りほどこうともせず、左近の目を見て真意を探ろうとする。左近の瞳は三成を映すばかりで、三成にはなにを考えているのかさっぱりわからなかった。

「なんだ」
「俺も、あんたについていっていいか」
「なぜだ」

 想像以上に三成は自分の声が緊張していることに気付く。
 左近の言ったとおり自分はひとの介入を恐れているのかもしれない。自分が他人に介入しないのは、決して自分が不老不死であるという負い目からではなく、ただ、単純に人付き合いというものが怖いのではないだろうか。新説に三成は目から鱗が落ちたようだった。

「なぜ、さあ、なぜだろう。今、ふと思いついた。だが、ひとというのは決して理性だけでは行動しない。情緒的な、感情で動くものだ」
「確かに。だが、俺についてきたところでなにも得るものはない」
「理屈でもなければ、利害でもない」

 左近の言うことは尤もだった。それでも、なぜか左近が自分についてくることが恐ろしく感じ、三成は頷けずにいた。

(ひととして、左近と共に生きたいと、あいな頼みしたのは紛れもない俺ではないか。たしかに俺はひとではない。だが、それでも左近は俺と共に生きようとしている。それなのに、なぜ今さら恐れている? なにが怖いのだ。どうして、俺は……)

 答えのない問いをくり返す。

「俺はひとを喰んで生きてきた。これからも喰むかもしれぬ」
「ああ」
「俺は死なぬ。老いぬ。お前は老いる。そしていつか、死ぬ」
「そうだ」

 視界が明瞭になった。日は落ち、辺りは薄暗かったがなぜか真っ白になった。

(ああ、そうか。俺は、老い、死ぬ左近を見たくないのだ。きっと。俺は変わらず生きるが、左近には必ず死が待ち構えている。左近を失う瞬間を見たくないのだ。できれば、俺の知らぬところで、俺が忘れてしまったころに、その灯火を消してくれれば、ずっと気持ちは楽なのだ。目の前で死なれてしまったら、俺はきっと深く悲しむのだ……。悲しみたくないから、そんな情に支配される自分が怖いから、俺は左近と共に行くことを恐れているのだ。自分勝手な……)

 恐れるものなどなく三成を見据える左近が、途端に歪んで見えた。

(兼続は確かに不老不死だ……、俺はあえて共に生きようとは思わなかった。兼続には兼続の生がある、まだあいつは若い。これからもまだ、生きていくだろう。蒐集家としての生を誰かに託そうとしない限り、ひとり、孤独に……。俺は兼続にその生を強要していたのか? しかし、兼続はなにも言わなかった。これからも、また、新たな自分の在り方を見つけようと暗中模索し続けるのだ、きっと。互いの生を確立するために、あえて孤独を友としたのだ。だが、俺は揺らいでいる)

 三成は頭のなかだけで考えることが多く、それはひどく偏った結論しか出せない。意見を出す人間が自分しかいないからだ。
 相変わらず熟考する癖のある三成の答えを、左近は根気強く待っている。

「俺は、死ぬ瞬間のお前を見たくない。多分、失う悲しみが怖いのだ。自分ががらんどうになってしまうようで」
「なら、俺を喰んでくれればいい」
「お前を、喰む?」
「そうだ」

 新しい側面だった。
 目をまんまるに見開き、穴が開きそうなほど左近を見つめる。左近は笑顔で続ける。

「食べてしまいたいほど可愛い、と言うだろう」
「お前は可愛くない」
「ははっ、そうかもしれないね」

 脳裏に、藤の少女を喰んだ翌日のことを思い描く。
 あの日、木陰で『食べてしまいたいほど、可愛い』という言葉と自分の行為を比較した。自分の行為は肉体的なものを超えた、精神的なものであり、至高の方法であると――。

「俺はあんたのなかで生きることになるんだ。確かに、この世からは消えちまうかもしれんがな。それでも、俺はあんたのなかにいる。おもしろいだろう?」

 左近はこどものように歯を見せ、問いかける。言葉につまってしまった三成は呆然と左近を見つめ、俯き、そして顔をそらす。

「好きにしろ」左近の手を振り払い、腕を組んだ。「喰むか喰まぬかは俺が決める。お前がもう少し可愛くなったら考える」
「そりゃ難しいご注文で」

 左近は茶化しながら、重くなっていた腰を持ち上げる。関節が甲高い音を立て、苦笑する。
 同様に苦笑した三成は、そのまま踵を返して居間へ向かう。居間を越え、玄関に向かい、履物を履いた。

(なんだか妙なことになった。……まあいい)

 ほのかなあらましごとと、暗影に襲われながらも、立ち上がり、背を伸ばした。

「もう行くんですか。こんなに暗いのに」
「夏の夜は涼しいから好きだ」
「はあ、まあ、ちょっと待ってくださいよ」
「勝手についてこい」

 日は暮れ、闇夜をとぼとぼと歩き始める。砂利の音と蝉の響きが、良い調和を生んだ。
 やがて左近の影が三成の影に近寄り、雨も降っていないのに傘を差して、ゆくらゆくらするように歩きはじめた。



 了









06/24