「違うだろう」
「なにが」
兼続に新品の傘を手渡された三成は、困惑して兼続を見た。「本当にすまない」と一言返したら、このように兼続に注意され、なにがなんだかちっともわからなかったのだ。もしや、自分は勘違いしているのではないか、これは自分がもらうものではないのだろうか、といった不安が押し寄せる。
「こういうときは『ありがとう』と言うものだ」
「む。……あ、りがとう……」
「そうだ。謝るのではなく感謝したほうが、気持ちよいだろう」
俯いて謝辞を述べれば、兼続は満足したように歩き始めた。言い慣れないことを言ったため、三成はむず痒い気持ちだったが、あえて気にせず兼続の背中を追いかける。昼間のせいかひとが多く、兼続を見失いそうになる。
呉服屋の前を通ったとき、兼続に店員――慶次のことを言おうか逡巡するが、結局言わなかった。
「もう行くのか」
「ああ、そろそろ。長居しても、な」
それからふたりは黙りきり、ひとの流れに沿って歩いた。ひとは活気に溢れ、流れ自体はゆるやかだが熱気はまるで洪水のようだった。
(家中を喰んだが……、この町の政治はどうなったのだろうか)
世の機能のしかたに疎い三成には想像もつかなかったが、ひとは楽しげに生活を営んでいるという事実に安心した。たしかに治める人間は必要であるが、それが決してそのひとである必要もなく、ひとり消えれば別のひとに代わるだけのことなのだ。頭の奥にある、肉眼では決して見えない部分でそう感じ、落ち着いた。
ひとしきり歩いてから、兼続が足を止めた。三成も同じように足をとめ、兼続を見る。兼続はぼんやりとひとつの大きな建物を見上げている。三成も兼続の視線を追い、建物を見上げる。その建物に、三成は見覚えがあった。
(ここはあの、ねねとかいう女の家。旦那が兼続の与えた日記によって暴走して、殺されたという……)
ねねの顔も、もう薄らぼんやりとしか思い出せなかったが、兼続の心境を想像して三成はなにも言えなかった。自分が信じ、良しとしてきたことが裏目に出て、死ぬ理由のなかった男が死んだのだ。ただの自己満足ならばまだよかった。それでも、ひとりの男が死んだのだ。今、兼続にかける言葉のすべてが子どもの玩具のようになるだろうと信じた。
「……三成、覚えているか」
唐突に兼続に問いかけられ、三成は言葉も返さず、視線だけで応える。
「お前が初めて私の家に来て、夜中に寝床を抜け出した日だ。そこで、女性が暴漢に襲われていたな」
「ああ」
三成が喰んだ男、兼続がその日記だけを抜き取った女、確実に覚えていた。むしろ、兼続よりも先に思い出していた。
「その男……、三成は、どうしたか……。蒐集したのだったか……それともただ、殺したのだったか……」
「なんだ? 俺が素手でひとを殺せると思うか? 喰んだよ。確かに」
おや、と三成は首をかしげた。確かに三成は男を喰んだが、それを兼続がうっすらと覚えていることに驚いた。もしかしたら、日記蒐集家という存在は本当に遊戯蒐集家の記憶の支配下には置かれないのかもしれない、と。
しかし、それならばおかしいことがある。なぜ、いまさらになってその記憶が不安定になったのか。どうして蒐集という事実以外の、殺したという選択肢が生まれたのか。
「そう、だな。おかしいな、なぜか、三成がなにか刃物かなにかで殺した……あるいは、私がその男を斬り捨てたように思い出してな……」
「……」
(もしや)
背中を悪寒が駆け抜ける。
(遊戯蒐集家とは……、消滅が近くなると、その支配力が弱まるのだろうか。ならば、それは、妙な記憶違いが起こるように設定されている、曖昧なもので……)
保障はなかったが、三成の心には確信めいたものが芽生えていた。完くの想像上のものだったが、誰に説明されるものよりも信じるに価していた。
「兼続」
「なんだ」
「もしかしたら、これ以上ひとを喰めば、俺は消滅するのかもしれない」
「……そうか」
兼続は制止もしなかったし、奨励もしなかった。ただ、一言事実を受け入れただけである。それでも三成は十分だった。勧められても止められても、ただ困るだけであった。
(ならば……、家中は消えたのではなく、誰かに殺されたという話になっているのではないだろうか)
「俺は、そろそろゆく」
「……わかった。三成、元気でな」
「お前こそ、へこたれていてはならぬぞ。自分の生き方は、誰にも束縛されるべきものではないのだ」
「ああ、覚えておこう」
一歩目はひどく重く、二歩目は妙に軽く、重く、軽く、それをくり返しているうちに通常に戻った。三成は振り返らずに歩いた。おそらく、兼続ももう見ていないだろう。それほど未練たらしくすることではないのだ。蒐集家は、自分が望まなければ不老不死であるのだ。
もう三成は自分に関しては頓着しなかった。あまりにも非生産的で、自分について問い詰める行為すら自己満足に思え、ばかばかしく感じたのだ。目の前には事実しかなく、三成の許容量が近いことも、家中を喰んだことも、いくら考えたところで変わらない。変わるのは、自己の正当化に成功したかどうか、といったことだけである。
すれ違うひとは皆、傘を手にしている。暗く重いねずみ色の空を見上げ、三成は足を速める。雨が降る前に左近の家に辿りつければいい、と願った。
湿った風が吹き、心無しか虫も鳥も静かだった。雑木林を抜けた三成は、左近の家を視認し、半ば駆け足で近寄った。ぽつぽつと雨が降り始める。しかしもう家は近いのだから、と三成は傘を差さなかった。
軒下に滑り込み、一呼吸置いてから戸を叩く。心臓が荒れ狂い、頭にまで鼓動が伝染したように立ちくらむ。ふらつかないように、足を踏んばり、三成は返事を待った。
やがて、奥から忙しい足音がやってきて、壊さんとばかりに勢いよく戸が引かれる。
「来てくださったんですか」
「ああ、一応」
左近の顔を直視することが出来ず、俯き加減に返事をする。三成は見なかったが、左近は安堵したような、深い笑みをたたえていた。
促されるまま三成は家のなかに入った。居間に入り、座布団を用意され、大人しくそこに座る。昨日、あれほど啖呵を切ったのが嘘のように大人しく、左近は不思議そうな顔をしているが、三成には関係なかった。
「で、なんだ」
三成は手狐を左近と向き合わせ、自分は決して左近を見ようとはしなかった。それは左近と顔も合わせたくないということからではなく、なにやら気恥ずかしいものを感じたのだ。昨日、あれほど傷つけるような言葉を吐いて、今さら顔を付き合わせることなどできなかった。
その手狐をまじまじと見ていた左近は吹きだし、自分も手狐をつくって三成の手狐と向き合わせる。
「昨日言ったとおり、あんたのことや俺のこと……と言ってもたいしたもんは無いんですけどね。ともかく、話をしたい。ああ、それと、昨日のことですが、俺は決して主に似ていたからという理由で、近寄ったんじゃないんですよ」
「知っている」
お互い、手狐をかしげさせ会話をする。
「不思議なひとだ。妙な意地をはって」
「主とは大違いか」
「まだそう言うんですか」
左近の表情は見なかったが、声の調子は明らかに苦笑を含んでいて、三成はむきになった。
「別に。……お前は俺が怖くないのか?」
「怖いというと?」
「俺は人間ではないのだ」
「ああ、きつねの妖精さんですかね」
「……なんだそれは」
「物の怪の類なんですよ」
からかう左近に三成は鼻息を荒くするが、すぐに落ち着いた。自分の知らない言葉を知っている左近に驚いたのだ。二百年と生きた三成は、確かに政治関連や外国の文化には疎かったがさまざまなことを知っていると自負していた。それでも、左近は三成の知らないことを知っていた。
「俺は……、ひとを喰むのだよ。昨日の影を覚えているだろう」
「ええと、得物で一突き、でしたっけ」
「……違う」
(やはり、記憶があべこべになっている。喰んだはずのひとを覚えている。そして、ただ殺したことになっている)
「あれ?」
「正確には言えぬが、俺はひとの生をまるまる喰むのだよ」
手狐は向き合ったままである。
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