すっかり一仕事を終えた三成は、同時に心がひんやりとしていくのを感じていた。そのときには良策に思えたものも、少し時間を置けばこれ以上にない駄作に見えるということはよくあり、今の三成は完全にこれに該当していた。
(左近だったら、どうしていたのだろう。警備を殺すことなく、家中だけを討っていただろうか。だが、事実、俺は多くのひとを喰んだ。考えなしだ、俺は。理性はどこへ行った)
白みはじめた山間を背に、三成は歩いた。ただ無心に歩くことがこの状況で最善のように思えた。
(亡霊……化け物……確かにそうだ。あの家中の言うとおり、俺はそういう存在なのだ)
兼続の家に到着し、三成は音を立てないように慎重に戸を引いて、履き物をそろえる。廊下を少し歩き、居間を通って、用心深く襖を開けて中を覗き込む。兼続は静かに眠っているようで一安心する。
畳が変な音を立てぬよう、爪先立ちで移動し、ようやく布団のなかにもぐりこんだとき、とたんに瞼が重くなり、どっと疲れが押し寄せてきたようだった。
(ひとを喰んだ……いかにひとがの生が美しいと言っても、結局建前で、欺瞞、俺は自己満足のためにひとを……)
すっかり興奮から冷めた思考は、自虐的な方向へ作用した。しかし、兼続の『内に働く思考が強い』という言葉を思い出し、ただ惰眠を貪ることに集中した。
「……三成?」
兼続が体を起こし、三成を呼んだ頃には、三成はすでに深い沼に沈んでいた。
三成が目を覚ましたのは太陽が真上に昇りかけているころだった。あらぬ方向へ跳ねる髪を撫でるが、反抗的な髪はまた別の方向へ居直るだけだった。やけになって強く髪を押さえつけるが、手を離したらやはりあらぬ方向へ跳ねる。
沈鬱とした心に呑まれそうになり、手のひらに爪を食い込ませた。後ろを向く思考を覚醒させるためにより強い刺激が必要であった。
(ひとりよがりもいいところだ。俺が家中を喰んだからといって、本当に都合よく作用するわけがない。なにを、思い上がっている。……直接言えばいいだけではないか)
一種の異様な緊張に苛まされたひとは、通常の思考力を失う。三成にとって昨晩がそれであった。こうして実際に事を終え、一眠りしてようやく自分のとった行動の虚しさを悔いたのだ。
(そうだ……直接言えば……、今日、左近の家に行って)
「おや、三成、起きたのか?」
襖が開けられ、三成はいったん思考を中断する。兼続が襖から顔を覗かせているのを見て、ほんの少し安心する。
「ああ」
「む、髪がすごいことになっているぞ。ほら、こっちへ来い」
だるく重たい体を引きずるようにし、兼続に促されるままそちらへ向かう。兼続は桶に水を張って、すでに準備をしていたようだ。浸けていた手ぬぐいを絞り、三成の寝癖と格闘し始める。
されるがままになりながら、三成は思考を再開した。
(左近の家に行って……少し、話そう。家中のことは、もう覚えていないだろう……。なぜ、家中を喰む前に思いつかなかった? 家中をいまにも討とうとしている左近に言えば、もっと、違う効果があっただろうに。……家中のことを忘れてしまったのなら、左近はいつまでここにいるのだろう。すぐに発つのだろうか、それともしばらくここにとどまるのだろうか)
後悔先に立たずとはよく言ったもので、三成はじぶんの浅慮さに身悶えを堪えるようにして爪で手のひらを傷つけた。
「よし、こんなところだ」
「すまない」
「なに。弟というか、こどもができたようで楽しいものだ」
そのとき、三成は唐突に、兼続が自分には記憶がないと言っていたことを思い出した。兄弟がいたかもしれないし、もしかしたら家庭を持って、妻やこどもがいたかもしれない。確かに、兼続の言うとおりその全てを忘れてしまっているかもしれないということは恐ろしく、また、申し訳なく思う気持ちで今にも破裂してしまいそうになるだろう。だが、それは誰が悪いことでもなく、ただそうであることしかできないのだ。
「今日、行くのだったか」
「そうだ」
「その前に、町に行かぬか」
「……悪くない」
哀愁じみたその行為を、以前ならば一蹴していたであろうが、三成は一言そう答えた。
兼続は桶を手に取り、その場を離れる。三成も立ち上がり居間の畳を踏む。机の上にはだるまがぽつねんとおり、机の前に座ってだるまをつついた。だるまは揺れ、三成を非難がましく見ているようだった。
「お前ともさよならだ。お前をくれた男は、どうしているだろうか。旅人で……、きっと、家族に土産物を渡して、笑っているのだろう。……たしか幸村といったか……」
(幸村?)
ふと三成はだるまをつつく手を止めた。
幸村という名に聞き覚えがあった。旅人本人に聞いた名前よりもずっと最近の話で、記憶に新しい出来事のうちに。そして慶次と名乗った男を思い出した。
「幸村!」
慶次の弟の名を、幸村といった。偶然の一致にしては出来すぎていた。慶次の弟は(おそらく)兼続に日記を蒐集されほんの一部の日記を失くしたと言っていた。そして旅人の幸村の日記を蒐集する場面を、三成は目の前で見ていた。この奇妙な連鎖について、三成は言語に尽くしがたい感情を覚えた。
(なんという輪廻。このだるまを渡した男の兄が、兼続の義の不十分さを糾弾したとは)
すべては繋がっている。三成はあまりの運命的な連鎖に、少し胸が軽くなったことを感じる。
「さ、三成、ゆこうか」
「……ああ」
あらかたの家事を終えた兼続が笑顔で廊下側の障子から顔を出す。三成も笑って応えた。
太陽は雲に隠れているが、少しだけ傾いている。一段と重たい雲の下、三成は木にとまった蝉の数を数えながら町へ向かった。
「六匹もいたぞ」
「そんなに見つけたのか。私は四匹しか見つけられなかった」
三成は得意気な顔をして、また木に目を馳せた。
今にも雨が降りそうな空だった。兼続の持っている傘が活躍しなければいいが、と思いながら、三成は蝉を探す。しかし木が減ってきたせいか、蝉の声は聞こえるのにどこにいるかわからないということが多くなった。
「なにをしに町へ行くのだ」
「いや、傘を買おうかな、と」
「今持っているではないか」
「お前のぶんだ。これからまたひとりで旅をするのだろう。傘のひとつでも持っていておかしくないはずなのに……なぜ手ぶらなのだ」
その兼続の心配に、三成は笑った。なぜ笑われているのかわからない兼続は、慌てて三成を見る。しかし三成は理由を語ることをしなかった。ただ、今までの積み重ねがひどくおかしかったのだ。
(本当に世話焼きだ。こんな、出て行く男のためにそんなことまでするなど)
笑いが治まり、三成は少し歩調を速める。町まではもう三町も歩かなかった。
「俺はこうして、勝手に出て行く男だが、それでもお前はまだ友と言うのか?」
「当然だ」
「もう会うことがないかもしれないが」
「なんの問題がある」
「変な男だ」
「お前のほうがよっぽど」
もう蝉を数えることをやめ、ただ兼続との会話を楽しむ。兼続も三成との会話に集中し、少し背の低い三成を見下ろすようにしている。
「それにな、もう会うことがないことなどあるか」
「そうか? 世は広いぞ」
「いいや、狭い。五十年くらいしたらまた会うかもしれぬ」
「そのときは、どこで会うのだろうかな」
「さあな……、私もここにあまり長居はできぬ」
ふたりは決して約束はしなかった。約束するということはお互いを制限することに繋がり、不自由な自由の束縛となるからだ。もう義や不義だとかの押し付けはせず、ただ、あるがまま、感じるままに生きようとしていた。曖昧な言葉で濁しながら、決して縛らず、そうなったらいいかもしれない、という小さな願望だけがそこにあった。
「そういえば、羽織はどうしたのだ。あの、左近にもらったという紅梅の」
「ああ、返した」
「もらったものを? 似合っていたのに」
「……腹が立ったから」
「なんだそれは」
兼続は笑ったが、三成は唇をとがらせるだけだった。
06/24