湯気をたてながら居間に戻ってきたふたりは、居間に大の字になってひたすらに黙っていた。だるまはふたりを見下ろすように机の上に鎮座している。
 三成は唐突に口をひらいた。

「この数日、充実していた」
「なぜ、あえて手放す?」
「明確な理由などない。そうしたらいいと思ったからそうする」
「嘘だな」

 兼続が体を起こし、三成もそれに倣う。濡れた髪に、変に癖がつきうねっている。

「……そうだな、嘘かもしれん」

 あぐらを掻いた足の爪先を見つめ、落ち着いた声で喋る。兼続は立ち上がり、寝室に繋がる襖を引く。黙って兼続の動向を見つめていた三成は、重い腰を持ち上げ、追いかける。

「寝室で寝るか?」
「布団、あるのか?」
「ある」
「そうか。安心した、一緒に寝るとか言わなくて」
「流石にそこまでは……」

 兼続は押入れから一組布団を取り出して、畳の上に敷いていく。もう一組、部屋の隅に几帳面にたたまれている布団を隣に並べ、一息つく。三成はその間、じっと見守っているだけだったが、兼続は文句をひとつも言わなかった。

(やはり世話焼きだ)

 押入れから出した布団の中にもぐり、兼続を見上げる。同様に兼続も布団の上に横になった。

「なぜここを出るか、という話についてだが。これはまったくもって自分本位極まりない理由だろうが、俺は、怖いと思っているのかもしれない」

 三成は難しい顔を作り、天井の木目を数えながら話題を掘り返す。眠気はまだ遠い世界のもので、完全に目は覚めきっていた。兼続も同じようで、三成の横顔を眺めている。

「怖い? なにが」
「わからぬ。……いや、少しはわかるような気がする。生きたい……ひとになりたいと願う俺の気持ちに、収拾がつかなくなりそうなのだ」
「……左近、か」

 左近という言葉に、唐突に左近の存在とひとを喰んだ瞬間、明日にまた来てくれという要望を思い出した三成は、はっとした。
 なぜ明日と限定したのか、それは左近が明日の夜中に所用を終え、この土地を去るということだ。おそらく、家中を討ったその足でこの地を去るのだ。だから明後日でも、明々後日でもいけない、明日でなくてはならないのだ。そして左近の家に向かったその足で、三成は一足早く、この地を去る。そういう予定がすでに頭のなかに組み込まれていた。
 三成は、『ひとになりたいと願う気持ち』と左近の因果関係を考えた。ひとの左近と出会い、話し、自分もひとで、同様に年を重ねていければと願った。紛れも無く三成の決意には左近が外せない存在である。

「そうだ、確かに、左近との出会いがきっかけだ。が、もしかしたらそれは、俺の根底にあった願いなのかもしれぬ。おそらく、蒐集家とは……遊戯蒐集家とは、誰にも知れず、孤独を友として消滅しゆくものなのだ。俺が消滅したとき、俺のことをお前は忘れてしまうだろう」
「日記を生業とする私も?」
「ああ、おそらく。確かめようのないことだがな」
「ならそう否定的に考えるでない。少なくとも、ひとはお前のことを忘れるだろうが、日記を生業とする私は忘れない。そういうものだ」
「……そうか」

 いつのまにか天井の木目がひとの顔に見えてきて、三成は目をそらした。
 障子から薄くもれる月明かりが、兼続の顔を浮き上がらせている。天井と兼続の顔を何度か見比べて、兼続ではなかったと三成は安心する。
 じりじりと必死な蝉の叫びが、いっそうふたりを冷静にさせる。必死になっているものを見ると、どういうわけか自分は冷めてきてしまうもので、今はお互いに静心で寝転がっている。

「兼続は」寝返りをうって、兼続に背を向ける。「日記蒐集、もうしないのか?」
「わからぬ。……しない、かもしれない。失った人間の恐怖を知りながら、ひとから奪っていたのだ。これは明らかな矛盾だった。私はその点に関し、義の盲目であり、猪突猛進だったのかもしれぬ」

 兼続の言葉が背中にぶつかった。その言葉に三成は、新たな発見をした。

(そういう見方も、あるのだな。一辺倒ではいけない……)

 布団のなかが蒸してきて、足だけ畳に放り出す。ひやりとした外気に触れた足から、急速に体内が浄化されていくような錯覚を覚える。爪先を伸ばしたり、指先をばらばらに動かして、甘美さすら備え、まろやかに手を伸ばしてきた眠気を追い払う。

「それは、日記蒐集はもうしない、ということか」
「そうなるのだろうか」
「かもしれぬ」
「なら、そうだな」

 兼続の声は笑っていた。
 その声の振幅はきっと笑いなのだ、と三成は思い込んだ。




 兼続が完全に寝入ってしまったのを確認し、三成は立ち上がった。すっかり闇になれた目は暗闇でも何物にもぶつかることなく歩くことを助けた。
 幾重にも悩み、底なしのように沈みゆき、とうとうひとつの重々しい決断を下した。

(家中を……喰んでしまえば、左近がその手を染める必要はない。ひとはひとの命を奪って生きる必要など、本当は、これっぽっちもないのだ。ひとはひとりぶんの力しかない。ふたりぶんも、みたりぶんもよったりぶんも、背負う必要はない。ただ、ひとり、自分の力で自分が立てればいいのだ)

 それは完全に悪循環であった。
 三成はすでに肌で感じていたはずだった。左近がそういうことを生業にしていて、おそらく先の大戦でも多くの命を背負い、主の命も背負い、そしてこれからもなにかを背負っていくことを。だが、それでも、三成はひどく情緒的に、観念的に考えていた。生来、どちらかと問われれば理知的に、理論的に、論理的にものを考えていたはずの三成が、兼続という人物の登場で驚くほど人柄が、思考さえも変わってしまった。そういう意味で、兼続という存在は大きな転機となり、絶大な影響力を持っていた。それを良い方向へ作用させるか否かは三成自身の問題であり、兼続にはなにも責任はなく、ただひたすらに試行錯誤するのみだった。
 いかにまとまりが無く、なにも筋の通っていない結論であろうと、三成にはそれをまことしやかに正当化することができた。

(家中ともいうひとを討てば……、左近にも身の危険がふりかかろう。一生を逃れることに浪費するなど、許さぬ。ひとはもっと、美しく、輝いて在るべきだ。俺のように老いぬ外見を持ち、ひとから離れることなく、ただ、どうどうとその生を、もっともらしく全うすることが、なによりだ。ひとは美しい、左近もひとなのだ。美しく……、爛々と輝き、ただ、ひととしての生を)

 究極の観念論である。それは押し付けに等しいものであることを自覚していたが、それ以外の結論にはたどり着けなかった。それでも三成は、そうすることが現状での最善であると信じるよりなかった。
 深い藍の着物は闇によく溶け込む。慎重に砂利を踏みしめる。虫の声も鳥の声もなく、ただ砂利の音と草木の囁きしかその世界には存在しなかった。
 湿った風が頬にはりつき、気持ち悪さを覚える。

(できることならば、もう、自分の首を絞めるようなことをしないでほしい。左近は、迷っている。きっと。先の大戦の東西の対立がどういったものだったか、よくは知らぬが、確かにこの世は成立している。ひとが事なかれ主義と成り下がったと左近は言ったが……、確かに俺も似たようなことを思ったが、それでも、ひとは生きているのだ。その事実だけでは、いけないのだろうか。これから世がどういう方向へ向かってゆくかは見当もつかない。だが、ひととは常に刹那的に生きる……、排他的で、利己的で……。しかし、それも他者がいなければ存在しえない。ひとがいるからこそひとは排他的、利己的、感覚的、理知的、厭世的、楽天的、概念的、観念的、狂的に多様になる。奇跡的なものごとのつりあいが……うまく……。それだから、ひとはひとを殺めては、均衡が……。――事実、この世は東が勝利し、見事に治まっている。その事実だけでは生きていけない……、それがひとなのかもしれない。だが、なぜ、左近がそうする必要がある? 自分がやらずとも誰かがやる、というわけではないが、なぜ、どうして、左近がこんな、森の木を一本、薪にするようなことをしているのだ。そうした先になにがあるのだ。俺が家中を喰めば、左近は家中のことを忘れるだろう。そうすれば考える時間ができるはずだ。旅をしながらでもいい。いかに、それが虚無で、虚空で、空しく、なにもそれが残らないか、考えて欲しい。そうしたら……)

 いつのまにか人気の無い、静まりかえった町にたどり着く。昼間の喧騒がまるで嘘だったように、ただ闃寂としている。
 三成は一度足を止めて、またすぐに歩き始めた。









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