「……今、なんと」
「俺はここを出る。いや、この地を離れる」
呆けたように兼続は三成を見つめている。その視線を真正面から受け止め、三成は落ち着いた状態で言葉を紡ぐ。
「なぜ」
「俺は、ひとを喰んだ」
「……ひとを」
兼続は心ここにあらずだった。三成の言葉が本当に届いているのか、三成にはわかりかねたが、同じことを何度も言う気にはなれなかった。
「ひとを喰んだ。なんの葛藤もなかった。ただ、俺は俺のためにひとを喰んだのだ。多分、俺はそうとしか生きられないのだ。もうこの地にいるつもりはない。流浪の旅だ」
「これからもひとは」
「おそらく、喰む。必要に応じては。確かにひとの生を摘み取ることは、不義なのだろう。ひとは短い時を生きるからこそ美しく輝いていて、俺にはとうてい、手の届かない存在だ。だが、俺には、そのすばらしい理想論を唱えるに値しない」正座を崩し、一息つく。「俺は、俺に対する不義を働いていた」
「自分に対する?」
「そうだ。俺はこの生を決して喜んでいない、つまり消滅したいと思っていた。それなのに自分を押し殺して、生き続けようと考えた。それは俺に対する不義だ。俺の義とは、俺がそのときに感じ、思考したことを忠実に守ることだ。それが正しいか正しくないかなど、俺が決めることである。うわべの義のために自分を殺すなど、ばかばかしい」
三成は鼻を鳴らし、腕を組んで居直った。義といったしがらみを放り出して、あるがままの姿になった気分だった。そして、思考することを投げ捨てたのではなく、これがその結論であるという、奇妙に厳かとして胸を張った。
その様子に兼続はうっすらと笑い、やがて呼吸ができないほどに笑い転げた。
「な、なんだ」
「……くっ、ははっ、ははは! そうか! 義とは単純なものなのだな、誰のためになど建前で、自分本位なものであるのか!」
兼続が笑い転げるたびに、箪笥の横に忘れられた様子で佇むだるまが揺れる。それを発見した三成は、転げまわる兼続にぶつからないよう慎重にだるまに近づき、手に取った。
「このだるまも、結局、虚像だったのだ」
「いいではないか、かわいらしいものだ! しばらく見ているうちにそのへんてこな目、愛嬌があると思えてきたぞ」
「なら、これはここに置いていこう」
「……本当に行くのか」
「ああ。明日にでも行く。いろいろなひとを見て周ろうと思う。喰むために見るのではない。ただ、飽きるまで今を生きるひとを見つめ、いつか、そのうち消えるよ」
三成には、ひどく肩が軽く感じられた。憑き物が落ちたように穏やかな表情をしてみせ、兼続はまた笑った。決して笑うべき話ではなかったが、楽しく感じられたのだ。
「私が生きている間に、またお前に会えるか」
「知らぬ。お前こそ、日記蒐集家としてどう生きるのだ」
「さあ、まだ考えていないな」
煮え切らない答えだったが、ふたりにはこれ以上にない納得のいく答えのように思えた。
だるまを机の上に置き、三成は兼続と一緒になって笑った。
「よし、風呂に入ろう」
「む、行って来い」
「いや、一緒に」
「ばかか」
ひとしきり笑いきったところで、兼続が立ち上がった。畳の上に大の字になったまま三成は返事をしたが、兼続に腕をつかまれ、立ち上がらざるをえないことになった。三成はじっとりと兼続を見る。
「なに、今夜が最後なのだろう。背中くらい流してやろうかな、と」
「いらぬ」
「遠慮するな遠慮するな」
三成に一蹴されても、兼続はたいして気に留めず、三成を引きずるようにして風呂場に向かった。踵で埃の掃除をすることが癪だった三成はしかたなく歩き始める。その間も拒否の言葉を連ね続けている。だが兼続にはどこ吹く風だった。
風呂場に到着し、兼続は三成を残して外に出た。誰も準備していなかったから、風呂が沸いているわけもなく、三成は真剣にここへ連れてこられた意味を考える。
「水は今朝のうちに張っておいた。あとは沸かすだけだ」
外から兼続の声が響く。そしてぱちぱちと火が燃える音と、薪をくべる音が聞こえてくる。
「俺がやるから、兼続が入ればいいだろう」
「なに、私がお前の背を流すという話はどうなった」
「不成立だ」
やがて風呂は熱気を発しはじめ、顔が少し湿ってきた。顔を袖で拭いながら腕をいれ、湯加減をみる。
「もういいぞ」
「わかった。今戻る」
そこで三成はいよいよ困惑した。いくら着替えに関して、どうどうと着替えるようになってしまったとはいえ、風呂は別である。しかもそう広くない風呂釜に、ふたりで入るなど想像もつかなかった。
「なんだ、入っていないではないか」
「ばかもの、できるか、そんな、いい年した大人がだぞ、ふたりで風呂に入るなど……」
「なにを照れることがある。恥ずかしいことがなにかあるのか」
「ない」
「ならばいいではないか」
そう言うなり兼続は素早く裸になり、飛沫をあげて風呂に飛び込んだ。湯をまるまる被ってしまった三成は、ずぶ濡れのままその場で呆然とした。
「ほらほら、早く入らぬか」
兼続はこどものように、手のひらで湯をかける。湯を頭から被りながら、三成は拳をこれ以上にないほど強く握り締めた。
「ばかもの! まるで濡れ鼠ではないか!」
「ははっ、ならば風呂に入ってしまえばいい」
(なんだこいつは、恥が無いのか……。それとも俺が気にしすぎているのか?)
完く答えの出ない問答だったため、すぐに疑問することを諦め、同時に無意味な抵抗を諦め、三成は着物をゆっくり脱ぎ始めた。
「……」
「なんだ、見るな、ばか」
「いや、ゆっくりと恥らいながら脱ぐというものは、意外と、こう……」
「男らしく脱げばいいのだな」
そう言うなり、半ばやけくそで着物を剥いて、兼続と同じように飛沫を上げて風呂に飛び込んだ。狭い風呂釜にふたり、無言で向き合った。
「……改めて向き合って風呂に入るのも、妙な気分になるな」
「ああ。だからひとりでいいと」
「よし、背中を流そうか」
兼続は立ち上がり、手ぬぐいを湯に浸した。
「本当に流すのか」
「もちろんだ」
兼続が壁を指差したので、三成はしぶしぶそちらへ体を向ける。それから妙な鼻歌と共に背中を強く擦られ、どこかむず痒い気持ちを覚える。
蝉の音がどこか遠くから響き、心地よさに目を閉じる。
「右」
「こっちか」
「もう少し上だ」
「ここか」
「そこだ」
最後まで渋っていたものだが、いざ実行するといろいろ注文をつけてくる三成に、兼続は気付かれないように笑う。そして同時に、三成がふと心変わりしないか、という期待も頭を掠めていた。
「左下」
「ここらへんか」
「もう少し左」
「よしきたここだ」
「流石だ」
三成は振り返り、兼続と目を合わせる。お互いに、小さく吹きだした。
06/24