水で濡らした手ぬぐいで三成の顔を擦り続ける兼続に、いい加減三成は本題を切り出したかったが、たびたび失敗していた。

「だから兼続……」
「用件はこれが終わってからだ。なんという顔をしているのだお前は」

 おおかた、目に見える血を拭い終わった兼続は桶に手ぬぐいを浸し、一息つく。ひりひりと傷む顔をさすりながら、三成はようやく本題を切り出せた。

「兼続、お前に客人が来ている。居間にいる」
「なにっ! なぜそれを早く言わぬ。いやそれ以前に、知らないひとを勝手に家にあげるなど……」
「いいから早くしろ」

 兼続の背を押し、三成は居間へ向かう。心のなかでひっそりとため息をついた。
 居間ではやはり、男は変わらずにぼんやりと空や木を見つめていたが、兼続が現れたのを見るやいなや、その場は剣呑とした空気に包まれた。
 兼続は緊張した場に首をかしげながら、自分と三成のぶんの座布団を用意する。
 男と向かいあうように兼続は腰を下ろした。三成もつられるように兼続の隣に腰掛ける。男は三成のことなど視界に入っていないようで、兼続をまっすぐ見据えている。

「あんたが、兼続さんかね?」
「そうだが、どういった用件で」

 随分と硬い声音が、兼続の気持ちも吊り上げた。
 男は気持ちを落ち着かせるように息をつき、足を崩して、改めて兼続を見る。

「なんのために、ひとの記憶を奪う」

 兼続は微動だにせず、男と視線を交わす。

「奪う……? 違うな。私は、こぼれた日記を拾い上げているだけだ。それを記憶を失くしてしまったひとへの人間としての糧にしているだけだ」

 危機とした雰囲気だった。今にも平衡が崩れて、なにもかもが瓦解してしまいそうで、三成は口を開けずにいた。

「自己満足だ」
「なにが」
「お前のその、ひとの記憶を他人に移し変えるという、行為」
「自己満足だと?」

 息を呑んだ。兼続の纏う雰囲気が一変した。
 三成は動転し、目を回した。兼続は三成に義というものを説いた、言わば『子』であり、決して覆されることのない強固な土台を築いているはずだった。兼続が男に崩されようとしている場面に、頭が回らなくなってしまった。

「そうだ」
「……なにが自己満足だ。あなたは、記憶の無いひとの気持ちを考えたことが、あるか? どこからやってきて、今までなにをして、どんな家族がいて、どれほど素敵な恋人がいて、すばらしい友人に囲まれていて、どんな嗜好をしていて、どんな思考を持ち、自分が何者なのか――。なにもわからなくなってしまったひとが、どれほどの不安に苛まされ、押しつぶされそうになるか。私は、そういったひとの心の隙間を少しでも埋めたい」

 場は閑寂とした。
 兼続の語調は決して荒れず、寂とした状態を保っていた。その底から響くような声音には否応なしの説得力があり、三成はなにも反感を覚えなかった。しかし男は違ったようだ。

「それは、欺瞞だ。……記憶というものは、そのひとの人格を作り上げるのに大切なものなんだ」
「そうだ。だから私は記憶の無いひとに」
「嬉しい記憶も」男は兼続の言葉を遮る。「……どんなに辛い記憶も、失くしちゃいけねえんだ。どれかひとつでも欠けてしまったら、そのひとではなくなる」
「……」

 兼続は男から視線をそらし、畳の目を見つめた。言葉を探しているようにも見え、なにも反論できないと降参したようにも見えた。

「あんたは、記憶の無いひとにその隙間を埋めるために記憶を与えると、言った。だが、それは偽者だ。他人の記憶をそのひとに与えても、結局あべこべで、不自然な偽者が出来上がるだけだ。だから、これ以上、不毛なことはしないでくれ」
「しかし、ならば、どうすればいい! 私のような記憶の無い人間には何も無い、私には何も無いのだ! この空虚をなにで埋めればいい? 記憶だ。無いのは記憶だけだ。私には考える頭もある、ものを映す目もある、話を聞く耳も、言葉を紡ぐ口、味わう舌もある。無いのは、記憶だけだ。……私は、誰だ?」

 兼続は男を直視することがままならず、陰鬱として視線を落としたまま叫ぶ。拳は血がにじみ、震えていた。
 初めて聞く兼続の叫びに、三成はかける言葉がなかった。しかしあえて言葉をかけようとも思わず、唇を噛み締めた。

「お前は、ひとりの人間じゃねえか。お前の感情は本物だ。確かに、記憶の無い人間は自分の生い立ちに不安を感じるかもしれない。だが……、それもひとつの記憶になる。お前の記憶だ。新しい記憶じゃ駄目なのか? 他人の記憶ではない、自分の新しい記憶で、また、人生を一からやり直すことは駄目なのかい? 記憶は大事だが、自分がなにを感じ、どう生きるかが、大事だろう。記憶のある人間を羨んで、記憶を取って、それを記憶の無い人間に与える。もう一度言う。俺はお前に、こんな不毛なことをやめてほしい」

 男はゆっくりと、いつか兼続が三成に話したように言葉を紡いだ。
 噛み締め、咀嚼しながら言葉を吸収している様子の兼続に、三成は小さく息をついた。緊迫とした空気はすでに去り、ただ流れるような時間だけが全てとなった。

「しかし……、不毛だと言うが……、それでも、偽者であろうと、安心する。ひとは、本物かどうかなど二の次で、ただ、安楽が欲しいと願う。ひとは、ひとは、なにもない自分を恐れる。自分が自分であろうという、自我を、同一性を求める。自分が欲しいのだ。自分が無い人間は。自分を……」
「……お前は、お前が記憶を与えた人間の末路を聞いたことがあるか」
「末路……?」

 三成は息を呑んだ。男がなにを言い出すのか、わずかに物怖じした自分に気付き、それほどに男の鬼気迫る気迫に圧されていたことを知った。

「町の、少し裕福な家のおねねさんを知っているか」
「ああ。以前まで、私が日記を」
「旦那さん、死んだよ」

 背中を冷たい風が這ったようだった。
 しかしまだ三成には理性的な部分が残っていた。日記と死は直接に関係しないものである。三成のように遊戯蒐集家が蒐集すればまた別の話であるが、日記蒐集は記憶の話であり、ひとの命を奪うものではないのだ。だから男の言いがかりに近いものではないか、と三成は男を睨む。
 兼続も男の言わんとすることがわからず、困惑しているようだった。

「それが……、私の日記と、なにが……」
「お前が与えた記憶は、誰の記憶だかは知らないが、男の押し殺した願望のものだった。旦那さんは、その晩、ひとりの女を襲おうとして、殺されたんだと」

(……似ている。あの晩の出来事に。だが、あんなことはよくあることだ)

 兼続の家に初めて訪れた日、義について説かれ、理解できずにむしゃくしゃして夜中に外へ出た日のことを思い出す。

(だが……日も、状況も似ている。……いや、男は俺が喰んだのだ。だから、覚えているわけがない。俺が喰んだら、俺以外の人間は、忘れてしまうのだ……)

 三成はかぶりを振って、話の続きに集中する。

「……」言葉を失ったように兼続は黙った。
「女はなにも言わなかったが、偶然見ていたひとがいたんだとよ。助けを求められた男が、その旦那さんを殺すところを。なあ、これが本当に、望んだ形なのか? 旦那さんにその記憶を与えなければ、死ぬ必要なんて、これっぽっちもなかったんだ。偽者なんだよ、全てが」
「自分が本物であろうとあるまいと、失った人間には関係ない! ただ、ただ欲しいだけだ……、自分を証明するなにかを」

 兼続は既に、理路整然とした思考を失っていた。言葉はうっかり口をついて出てしまったように、とめどなく、だらだらと零れる水のようだった。

「……俺には弟がいる。幸村ってんだが、幸村は少しだけ、記憶を失くした」
「……」
「俺と小さいときにした約束だとかそんなことだ。本当に些細で、忘れていたようなことだ。俺は思い出したのに、あいつはちっとも思い出さない。些細な記憶がたくさん抜け落ちていた」

(たったそれだけで、ここまで目安をつけてくるとは)

 男の執念に三成は純粋に驚いた。自分にそこまでの情熱があるかと問われれば、返答に窮するだろう。

「それは確かに幸村だが、俺と共有していたはずの記憶がたくさん、無くなっていた。失くしちまったもんは元には戻らねえんだ」

 兼続はひどい衝撃をうけたようだった。それを横目に見た三成は、むしろ、冷静になることができた。自分でもわからなかったが、動揺する兼続を見て自然と心が冷めていくような、血の気がひいてゆくような、落ち着きを手に入れることができたのだ。

(幸村……? どこかで聞いたことがあるような……)

 三成が冷静になることができたのは、こうして思考が少し外れたせいかもしれない。しかしどれだけ考えても、左近や兼続、目の前の男の顔しか浮かんでこない。

「なんと言ったらいいか……、そうか、私は、間違っていた……のか。私は、記憶が無くても私なのか……」
「……俺はこれ以上、不毛な偽者を作り出してもらいたくねえって話をしに来ただけだ。邪魔をしたな」

 用は済んだとばかりに男は湯呑みの茶を飲み干し、膝を立てて立ち上がろうとする。兼続は慌てて男を呼び止めた。

「あ、私は兼続という。あなたの名は」
「慶次」
「慶次……か。変な男だ」
「ははっ、よく言われるな」

 男――慶次は居間を出た。やがて戸を引く音が聞こえ、とうとう家を出たということがわかる。
 取り残されたふたりはしきりに口を開こうとするが、目に見えないなにか、大きく、しけった、硬いものがあるように黙っていた。

(兼続の義が……、いったい義とはなんなのだ。もしや、義というものは単なる言葉にすぎず、形にもならず、もやのように……、俺たちを嘲笑うように纏わり付いて、けれど決して触れられず……、ただ掴もうと躍起になることしかできぬ)

 その結論によると、義はあまりに虚像だった。ひとりの男が義をどうだと定義づけることはとてつもなく困難で、それでいておこがましいもののように思え、三成は思考することを放り出したくなった。それでも、三成は考えた。義とはつまり、どういうものか、義の本質を探りたい、義の実態はどういうものなのか。
 兼続とふたりきりになったところで、三成はようやく決意した。

(ここを、出よう)









06/24