(恐れられなかった、のだろうか)

 雑木林を抜け、兼続の家が目についてもまだ左近の言葉にある真意をはかりかねていた。三成は打って変わって弱気になり、足元の石ころを蹴飛ばした。
 手頃な木の幹を見つけ、疲れきったように座り込む。血が乾いてかちかちになった手の平で頭を掻きむしり、ため息をこぼした。

(ひとを喰んだ。それがこれほどに憂鬱をもたらすなど。あのときの俺は、気が違っていたのだろうか……。明日、行こうか行くまいか……この地を……離れる……)

 なぜか思考は定まらず、風に揺れる木のように転々と姿を変える。三成はその思考を捕らえることができず、もがき続けた。

(ここは……好きだ。ここにいたい。いや、左近と兼続と、共に生きたい。それだけだ。だが、左近は人間で、蒐集家の業を背負わせるなど、とても……)

 つかず離れずをくり返す不安定な心にうんざりした三成の耳に、聞き慣れた砂利の音が届いた。音自体はよく知っているが、歩調は耳慣れないものである。三成はさっと草むらに身を潜めた(今、三成は乾いた血で体中がかちかちになっている)。
 影が伸びてくる。
 やがて現れたのは、どこかで見たような大柄で派手な出で立ちの男だった。髪は真昼の太陽のように白金に輝き、つむじから尾のように垂れ下がっている。目元に引かれたささやかな紅、他のひととは一線を画した巨大な体躯、豪快な笑い声をあげそうな大きな口。
 三成は少し間を置いてから、男について思い出した。

(あれは、呉服屋の……)

 その男は、三成と左近が本格的に話すきっかけになった呉服屋にいた店員であった。一体店員がなんの用でこんな人気のないところまでやってきたのか、それよりも三成には先立つ思いがあった。

(紅梅の……あの羽織……、俺には明るすぎる。きっと、左近の主であった男には似合ったのだろう。顔は同じでも、背中が違うのだ。そのひとに似合う色など、さまざまだ)

 三成は男の動向を見守る。どうやら兼続の家に用事があるらしく、なかの様子を伺っている。
 日記蒐集を依頼しにきたのだろうか、と、三成は味気ない気持ちを覚える。
 自分には逆立ちしてもできない芸当で、ああしてひとに求められることもない。自分はただ、ひとの生を凌辱するだけの、忌み嫌われるべき存在で、誰にも目を向けてもらえず、ひたすらに生きることしかできない、それしかない無能な存在であるのだ。ひと特有の刹那的なきらめきもなければ、兼続のように情熱もない(兼続のように情熱にたぎる蒐集家がこの世にどれほど、いるのか)。ずっと思い続けてきたように、早々に消滅してしまえればどれだけいいか。どれだけひとを喰んでも、未だに生きている。その変えられぬ事実に、何度深い絶望に落ちたことか、数え切れない。
 男は兼続が不在と知るや、踵を巡らし元来た道をたどり始めた。

「待て」

 反射的に、三成は男を呼び止めていた。男は牛のような速度で振り返る。確かに店員に相違なかった。
 店員は三成の姿を見て、目を見張った。もう乾きかけているとはいえ、体中――それも上半身に集中して――血に塗れているのだ。しかし三成はすぐにそのことには思い当たらなかった。

「この家の主に用事があるのだろう。俺はここに世話になっている。なかで待っていくか?」

 三成は予感していた。この男がなにかの転換点になるかもしれないと。それが良い方向なのか悪い方向なのかはわからなかった。しかし、この男が兼続に蒐集家として用事があり、それを頼む場面を目にすれば、心が定まるような気がしていた。

「あんた、その格好は」
「気にするな。汚れただけだ。そんなことよりも、どうするのだ」
「え……、いいのか?」
「かまわぬからそう言った。来い。汚いところだが」

 横柄にそう言い、戸を引いた。乱暴に履物を脱ぎ捨て、足音を立てて居間へ向かう。男は控えめについてくる。大柄な体に惑わされたが、礼儀正しい人間のようだ、失礼にもそう考える。
 座布団をひとつ放り出し、台所へ向かい茶の用意をする。普段しないことのせいかぐずついたが、形だけはなんとか取り繕うことができた。盆に載せて、落とさないように神経をとがらせ居間へ向かう。
 男は座布団に収まらない大きな体だった。その男がまるで小動物のように、黄昏れるように縁側から見える風景を眺めていた。

「ああ、すまないねえ。お茶までもらっちゃって」
「これしかできぬ」

 机の上に湯呑みを置き、盆を抱える。そのまましばらく、黙っていた。

「着替え……てきたら、どうかね」
「……そうする」

 男の言葉に三成は立ち上がり、箪笥のなかを探る。たった数日の間だったが、三成が着る用の着物は数着かあった。と言っても元々は兼続のものだ。適当な一枚を取り出し、三成はその場で着替えようとして、手を止めた。

(兼続の癖が移ってしまった)

 ひとがいても気にせず着替える、羞恥心の無い癖。そそくさと寝室に向かい、三成は着替えをすます。
 居間に戻ると、先ほどと変わらず男は風景を眺め、湯呑みは湯気をさかんに吐き出している。

「あんたも……記憶を奪われたのかい?」
「え?」

 男の突然の問いに、三成は一瞬なにを言われたのかわからず硬直する。

「あんたも、あの男に、記憶を奪われちまって、帰る場所がわからないのかい?」

 三成は混乱した。
 男の言う『あの男』とは紛れも無く兼続のことだろう。『も』という言葉が意味することは、この男は兼続に日記を蒐集され、帰る場所がわからなくなったということなのだろうか。曖昧な男の言葉に三成は、ただ推察することにむきになった。
 男は三成をちらりとも見ず、ただ風景を見つめたままだ。

「俺は、そんなことないぞ」
「なら、あんたはほんの少し、記憶を奪われたのかね」

 男の日記蒐集に対する否定的な態度をひしひしと感じた。三成は嫌な予感に拳を握り締めた。

「……お前は、町の呉服屋の店員だろう」
「ああ、そうだ」

 この話題は自分に対して毒だ、そう感じた三成は話題をそらした。男は対して抵抗も見せず、そのまま誘導される。

「あんたは……確か、前に紅梅の羽織を買っていったひとだったか」
「覚えていたのか」
「ほとんどの客の顔を覚えているさ。それにほんの数日前のことだ」

 確かに、ほんの数日前の出来事だった。だが、三成にとってはそれがまるで数ヶ月、数年にすら思えた。それほど実のある日をすごしてきていたということに、それを手放そうとも考えている自分を殺してしまいたくなる。
 風が吹いて、湯気が揺れる。
 三成は空を見た。真っ青な空に、湧き上がるような入道雲。今になってようやく気付いたが、蝉の鳴き声が今日は一段と強い。ようやく心に余裕を持つことに成功し、自然を意識できたのだ、と、三成は考えた。

「さっきは血塗れで、どうしたんだい」
「怪我をした。それだけだ」
「どこを? あの血の量は尋常ではないが」
「別に」

 話す義理は無い、と言わんばかりに顔をそらした。
 三成は知らなかったが、血は未だに三成の顔や喉を彩っていたし、髪はぱりぱりに固まっていた。男はあえてそれを言わなかったのか、それとも気付かなかったのか、ともかく男はそれについて指摘しなかったし、三成は自分の顔を知るよしもなかった。

(この男は……、一体、兼続になんの用事があるのだ。もしや、なにか、大変なことが……)

 自分から話題をそらしたのだが、三成は先ほどの男の言いようを未だ気にかけていた。心に巣食う、嫌な予感をどう処理したらいいのか心底悩んだ。
 そのとき、がらがらと戸が引かれる音が響いた。
 三成は立ち上がり、男に一声かけてから小走りで玄関へ向かった。

「兼続、よく帰ってきた。今、お前に客人が……」
「ただいま……、と、三成! なんだその格好は!」

 三成の姿を目に留めた兼続は、大声で叫んだ。突然の怒声に近い大声に三成は顔を顰める。

「なにがだ」
「顔だ、顔」
「俺の顔がなんだというのだ」
「血だ!」

 兼続は天変地異が訪れたかのように、慌てふためき、履物もそろえずに廊下を走った。









06/24