「いや……、あんたを殺しはしない。でなければ俺は止めない。今頃血飛沫であんたは染まっている」
「だから俺は死なない」
「頑固なひとだ」
自分が蒐集家であり、不老不死であるということを言うか言わないかと迷っていたことは完全に忘れて、三成はむきになってそう主張した。しかし左近はそれをただの強情として取り合わない。
三成が主張するたびに影は刃を主張させる。
(ひととはお前が思っているほど強いものではない。これを少し引けば、お前は簡単に死んでしまう)
そう、きっさきが語っているように思えて、三成は反感を覚えた。
「三成さん、この町は幸せではないですよ。――いや、この世界は幸せではない」
「なぜ」
「先の大戦をご存知ですか……、と言っても、その若さでは幼少のころのお話かもしれませんな」
「俺は若くない」
「いや、どう見ても二十やそこらでしょう。あなたは……、俺の仕えたひとの若い頃に瓜二つだ。輪廻転生とは信じていなかったが、あの時ばかりは信じようかと思いましたよ」
「東か、西か」
「西」
おぼろげな記憶をたどる。先の大戦についてはとんと無頓着であったせいか、なにも言葉が浮かばなかった。ただ漠然と、東と西に分かてていたということしか。
(そんな男がいたのか、知らなかったな。輪廻転生ということは……死んだのか。そうか、左近が妙に俺を気にかけたのは、主に似ていたから)
そのとき、三成は幾ばくかもわからぬ不安を感じた。
左近は三成自身には興味など無いかもしれない。ただ、三成に過去の主を重ね、幻想を見て、哀愁に浸っているだけではないだろうか。そうだとしたら、自分はたんなる道化にしかすぎず、ひとりで舞っていた哀れな男にしかならない。その事実に絶望した。
三成の額に汗が滲み出た。この夏初めての汗だった。暑さによる生理的なものや、喉の冷えた刃の感触のせいではない。一方通行でしかなかったかもしれない自分の感情に寒気立ったのだ。
「俺をどうする気だ。この影をいい加減にどかしてくれまいか。そんなものでは俺は殺せぬ。俺を殺すには――」
「どうして、死を恐れないのですか」
左近はやや憤った声音だった。決して苛立っているのではなく、むしろ死を恐れてほしいとでも言いたげな焦りを含んだ声に、三成は首をかしげたくなった。憤られるような覚えはないのだ。
「どうして、なぜ死を恐れない。死はすべての終着点だ。なにかをやり残したからって死は待っちゃくれない。死は美談ではない。ただの終わりだ。ひとは必ず死ぬ。それは当然だ。だから生きようとするのに……、どうして……どうして死を恐れないんだ、あんたは」
早口にまくし立てた左近に、三成は合点がいった。
「お前の主は死んだのだったな。……戦場で果敢に戦って死んだのか? 死を恐れずに」
「……いいや、捕らえられ、打ち首になった。俺が気付いたとき、殿はすでに……。風の噂に聞いた。殿は直前まで、命乞いもせず、生きることに執着していたと」
「だから俺に、顔が似ている俺に、その主のように生きることに必死になれと? それはそれは、立派な話だな」
(放っておかれても、俺はばかのように生きた。長い時を)
未だに三成は組み伏せられていたが、よもや皮肉をたれるほど精神面では完全に優位に立っていた。もはや三成は自暴自棄に近い状態で、なにを言って相手を傷つけようがこだわらなかった。つまり怖いものなど、無かった。
左近は表情を見せず、ただ背を向けて畑を眺めている。
ひとつの重大な決心をした三成は、鎖鎌の刃に手をかける。影は慌てて柄を持つ手に力をこめ、鮮やかな手つきで刃を引いた。
水音と鎖の音が響いた。
「三成さん!」
突然の進展に左近は驚き、立ち上がった。室内を覗き込んだ左近の着物を水が飛び散り、奇妙な模様で彩った。
想像を絶する痛みと熱に指先が痺れている。しかし掴んだ刃は離さなかった。三成の首を深く切り裂き、事切れたはずだ、と影は油断していたのか、あからさまに動揺を見せる。
(ばかばかしい。ばかばかしい。ばかばかしい! ばかばかしい! ばかばかしい……)
刃を掴んでいない、自由な手を影の額にかざした。影の体は分解され、幻想的な淡い光を発し、三成の手のなかへ消えてゆく。
すでにひとはいなくなった。
「ひとが……、誰か? ……誰かが、吸い込まれた……」
左近は絶句し、三成を唖然と見るだけだった。
緩慢な動作で三成は立ち上がり、左近と向き合う。三成の首からは血がとめどなく流れ続けている。
「左近、お前が俺に誰を見ようがお前の自由だ。だが、俺はそいつではない。俺は俺にしかなれない。俺は……こうして、生きるよりないのだよ」左近から視線をそらす。「俺は鬼だ、化け物だ。俺はただひとり、生き続けることしかない、無能な男だ。死なないのだ」
三成にはどうしても左近のもとへ歩み寄る勇気がなかった。
(ばかばかしいばかばかしいばかばかしいばかばかしい、ばかばかしい……)
「邪魔をした。帰る。……安心しろ、もう来ぬよ」
畳には血溜まりが出来ていた。足が血まみれになっていて、歩くたびに赤い足跡が残る。だが気にはしなかった。今の三成にとってはさしたる問題ではなかったのだ。左近が追いかけてくるもこないも、三成にはどうでもよく思えた。
玄関で履物に足を通そうと屈んだとき、紅梅の羽織が肩からずり落ちた。その羽織を掴み、しばしの間見つめる。首元がひどく血に染まっている以外はきれいなものであった。すぐ丹念に洗えば血は残らないだろうと予想した。
廊下を引き返し、まだ放心状態の左近に向かい羽織を見せつけた。
「誰に買ってやったのかは知らぬが、俺は俺だ。お前の主には似合ったかもしれぬが、俺にはもっと地味な色が似合う。これは洗って主の墓前に捧げればよい」
きっぱりと言い切り、血に濡れていない部屋の隅にそれを置き、今度こそ家を出た。振り返りもそずに三成は歩き出す。
血は止まり、ただ大きな傷痕が横向きに一本、残っただけだった。
砂利を踏む振動が体に響く。そのたびに体は地面にめり込んでいくようだった。いっそめり込みたい、穴があったら入りたい気持ちに支配されかけた。
(後先も考えずに……、もう左近には会えぬ。左近は予定通り、家中を殺し、またどこかを流浪するだろう。もしくは失敗し、その場で捕らえられ……期待などするな、ばか。呼び止めるはずが、追いかけてくるはずがない。兼続にも、もう会わぬ。俺はひとを喰んだのだ。俺の義など、蜃気楼だ。たしかにあるはずなのに、それは偽物だ。今夜にでもこの地を発とう。兼続に挨拶のひとつでもして、いかに俺がくだらない存在か……)
「三成さんっ」
遠くで絞ったような掠れた声が響いた。その瞬間、期待と不安に三成の心臓は跳ね上がった。足を止め、振り返ろうとするが思い止まる。その声が、三成が作り出した都合の良い幻聴でない保障はどこにもないのだ。
結果、三成は振り返らずに歩き続けた。振り返ったところに誰もいない様子など、見たくなかったのだ。
(ばかばかしい……ばかばかしい……)
声はまだ響く。
「三成さんっ、明日……、明日、もう一度いらしてください! 俺はあんたに、主に似ているという理由で近寄ったんじゃない。俺は、あんたをひとりの人間として好きだ! できればたくさんのことを話したいと思っている……。あんたのことも、俺のことも……。だから、明日……!」
三成は足を止めた。
この声は幻聴などではないと確信していた。
(ひとは……暖かい……、こんなに暖かい……、俺なんかを好きだと言う……)
ふと三成は視界が歪んでいることに気付く。着物の裾で目尻を擦ると、深い色の染みを作った。
(ひとは暖かい……、ひとになりたい……刹那の美しさ……)
そして振り返り、裸足で縁側から降りていた左近を見つける。手には羽織を握りしめていた。その姿を見たとき、三成は胸を鷲づかみされ、どうしようもなく苦しい気持ちになった。左近の心に自分はいない、自分とよく似た人間がいるのだ、そう思うだけで肩がひどく凝ったように思えた。
三成は返事をするかわりに片手を高く持ち上げ、手狐を作り、前方にかしげさせた。
「こん」
声は震えていた。
06/24