やはり妙な保護欲を見せる兼続を、三成は一蹴して雑木林を抜けた。今回はあまり深く考え込まないようにしようと努めていたせいか、妙に道のりが長く感じられた。兼続に言われたとおり、内へと働かせる力を弱めたのである。それでもいきなりはうまくいかず、何度も鉛を呑まされたように胸が重たくなる。そのたびに、三成はそういった負の思考を追い払おうと躍起になった。
空はねずみ色の雲がたちこめ、湿った風を吹かせている。なぜか蝉の鳴き声はしなかったが、小さな鳥の跳ねるようなさえずりはよく聞こえた。
前に訪れたときと同じように、左近の家が小さく現れる。三成は無心にその建物を目指した。また思考を始めると、足が止まってしまいそうだったからだ。
(なにを恐れている。ばかばかしい)
じゃりを踏みしめる音が体によく響いた。一歩進むたびに、心は軽くも、重くも変化した。
「……何某家中が……大安……子の刻……」
左近の家にたどり着くまえに、ふと耳を誰とも知れぬささやきが掠めた。普段ならば気にしなかっただろうが、このときばかりは三成は足を止め、辺りを見回した。
しかし、もう雑木林はとっくに遠いものとなっているし、周りは畑ばかり、ぽつんとたたずむ左近の家しかないのである。左近の家からもれてきたものだろうか、と三成は耳をすました。
「迷いなんて……まさか。何某家中は……」
その声は、左近の声に違いなかった。声音を聞けばなんとなく表情を想像できるものだが、三成にはちっとも、左近の表情を思い浮かべることができなかった。とぎれとぎれとはいえ、左近の声はそれほど、平坦だった。
風に載ってやってくる程度の、ささやかな声音は本当に一部しか聞き取れなかった。
耳を澄まそうとする自分のいやしさに、三成は吐き気を覚える。だが、『何某家中』という言い回しがいやに耳に残り、知らずに緊張していた。
(来客か、間が悪い)
出直そうと踵を返しかけた三成は、妙な、胸のざわつきを感じて思い止まった。その不可解なざわつきに混乱して、前後左右がわからなくなる。
胸の奥がまるで、熱しすぎたように冷えていた。言い知れぬ不安が際限なく溢れ出てくる。それは氾濫する川とよく似ていた。防波堤は役に立たない。それを越える波に呑まれそうになった。
「大丈夫です……金は受け取っ……相応の……仕事……」
その瞬間、三成はあっ、と声を上げそうになってしまい、すばやく唇を噛み締めた。今ここで声を上げれば、左近とその会話の相手に覚られてしまうかもしれない懸念があった。
どういうわけか、今までの想像力の訓練がこの日のために行っていたような気がした。ひとの言動から、心情を推し量る努力や、とぎれる言葉をつなげる練習が、このときばかりはばかげているように感じられ、自然と手に汗を握っていた。
三成の今までの訓練の集大成が弾き出した結果はいたって単純なものだった。
左近は何某家中と呼んだ、こののどかな地域で途方もない石を食む家中を、どうにかしてしまうつもりだ。――もちろん、暗殺というものにひどく近いもので。
この結論にいたるには、左近との会話があまりにも多かったことが要因だった。数えるほどに短い付き合いのふたりだったが、その濃度は深く、お互いの知られざることもうすうすと感じ取れるほどだったのだ。
そのとき、三成はどうにも言い表せない感慨のようなものと、衝撃を同時にもてあました。
多分、自分が首をつっこむべきことではないし、左近がそういったことを生業にしてきたということは三成にも感じ取れた。
左近がただ単に、金のためにそうしていると思えば、三成はなんとも思わなかっただろう。しかし実際は違ったのだ。左近の言葉を三成はほとんどすべて、覚えている。
『いいえいいえ、それほどのことじゃありませんて。俺も、久しぶりにあなたみたいに悩むひとを見ました。昔はたくさん、葛藤が渦巻いていたのですが。近頃となっては目の前のものを甘受するひとばかりだ。思考しないひとに少々飽き飽きしていたのですよ』
(そうだ、左近は、この世を憂える人間なのだ。以前の俺と同じに……。左近の言う、『昔』とはいつだろうか。ひとが大きく変わったのは先の大戦以降が顕著だ。左近の外見の年齢から見れば……、若いころは大戦の最中に生きていたはずだ。……たしかに、野望や陰謀がはりめぐらされていた、かの時代ならば、たしかに義についての葛藤など腐るほどあっただろう)
ひとが変わった、という三成の想像を共有することの出来る人間がいた。完全に俗世間から切り離された三成にとって、先の大戦は盲点であった。ちょうどそのころは、出羽のほうまでふらついていたのだ。面倒に巻き込まれるのはまっぴらだ、という逃避に近いものだった。
三成は予感していた。今引き返せば、また心は晦冥に覆われるだろう、と。ならばいっそ左近と正面を切って話そうと決意した。
わざと砂利を強く踏みしめ、大きな音を立てて歩いた。左近の家はもう目の前にある。
ぴたりと話し声は止んで、やがて戸が引かれる。左近がひょっこりと顔を見せ、微笑んだ。三成は自分がどんな表情をしているのかわからなかった。
「いらっしゃい」
決して立ち話をするつもりでやってきたわけではなかったが、家のなかへ上げてもらうとまでは考えていなかった。左近に促されて、ようやくそう思った三成は自分がどうしたいのか、ますますわからなくなった。
まず、左近と向き合い、腰をおろしてなんの話をするか悩んだ。
唐突に家中を闇討ちするのか、と問いかけてもそれを認めるかもわからない。それに話を立ち聞きされたと思われるのは、どうにも自分の程度を下げるような気がして気が引けた。おそろしく臆病になっている自分に三成は驚き、叱咤した。
例の湿った座布団に座り、三成は素早く室内を見回した。直前まで誰かが来ていたというような痕跡は無い。しかし気のせいであったという結論には落ち着かなかった。
「で、なにかお話ですか? 昨日のことで、左近に言えることがあったりとか」
「え」
身を乗り出した左近に三成は硬直した。
左近の言わんとしていることはすぐに理解した。左近は三成に得体の知れぬものを嗅ぎ取っていた。それが何であるのかはわからなかったようだから、こうして今も興味津々と三成を見ている。その視線に三成の頭の中は一気に混乱した。左近の素性のことに関して考えているうちに、自然と当初の目的を忘れてしまっていたのである。
水の中に漂っているようだった。体中に圧迫感と、緊張が走る。
「いや……、それでは、ない」
散々迷った挙句、三成はそう言った。目に見えるほどではないが、左近はほんの少しの落胆の色を見せる。
「左近……、お前は、家中を……」
「……家中を?」
場は瞬時に殺伐とした雰囲気に包まれた。それが三成の緊張に拍車をかける。
左近の顔からは完全に表情が消えうせ、三成を射抜く視線をしている。三成がなにを言うのか、なにを知っているのか、見定めているようだった。実際、三成はこのとき、心のなかを見透かされているような奇妙な緊張を覚えた。
(蛇に睨まれた蛙)
不思議なことに、蝉は黙っていた。
「何某家中。……お前は、こう言ったな」
「聞いていたんですか」
「そこまで来たとき、聞こえてきた」
「油断していましたな」
左近は深いため息のような声で呟いた。乗り出していた身を正し、立ち上がり縁側に立った。なにを考えているのか三成にはわからなかったが、左近の目は深かった。
そのとき、縁の下から黒い影が音も無く現れた。まるで猫のように素早い動きに三成はついていけず、気付いたときには目は天井を写すだけだった。ひやりとしたきっさきが三成の喉を差している。
左近が大声でなにかを叫んでいたことを、うっすらと思い出す。おそらく、左近がなにも言わなければ三成はこの黒い影に喉を引き裂かれていた。
黒い影は目の部分を残し、全てを黒い布で覆っていた。着物も洒落っ気などなく、体にぴったりと合い、動きやすさを重視したものだった。一目で影だとわかる格好だったが、三成はなにも思わなかった。首の端から端を支配する鎖鎌を見届けても、やはりなにも思わなかった。
「俺はお前のことを嫌いではない。むしろ好きだ。俺を殺すか。俺は死なないぞ。なぜ家中を殺す必要がある。この町の人々は、お前の目には不幸に写るのか」
(正確には、死ぬことができない)
鎖鎌が一段と肌に近寄った。それでも三成は一片の動揺も見せず、影と左近と天井を見比べた。
左近はいつのまにか縁先に腰掛け、旋回する鳥を眺めていた。
06/24