日は暮れかけ、全てが橙に染めあげられる。蝉は橙を含む深い黒の石のように、地に落ちた。一切の身じろぎもしない蝉に、せわしい揺れが近寄った。
挨拶もそこそこにして三成は足早にその場を去っていった。左近と話していたいという気持ちはもはや、霧のように露散してしまっていた。ただ、容赦なく荒れ狂う思考を抑えこむことに必死だった。
薄暗いけもの道にさしかかり、ようやく歩調を緩めた。足元が危うげになったからである。
(俺はなにを考えている。俺が人間だったならばだと? ばかげている、俺は人間にはなれぬのだ、俺はこのままずっと、生き続けるだけだ。どうすればいい! 俺に、どうしろと……)
その場にひざをついて、羽織で頭を覆った。三成のわきで、黒い細長い虫――種類はわからなかった――が軽やかに舞い上がった。虫はかすかな羽音をたてて茂みのなかへもぐっていってしまった。
ひとり、三成はうずくまる。突然、笑いだしたくなったがそんな気力はなかった。ひたすらに疲れ果てていた。それだけ自分の思考を糾弾して、なだめすかすということをくり返していた。
(遊戯蒐集家とはなんなのだ!)
心のなかで叫んだつもりだったが、無意識に口は動いていた。それはかすれて音にはならない。口を動かすたびに、あごに砂利が食いこんでむずがゆくなる。昼はからりと晴れていたのに砂利の下は湿っていた。
三成はとうとう、自分の根本すら否定しかねない勢いであった。遊戯蒐集家とは三成本人であり、今まで生きてきたほとんどといっていいほどの時間を費やした、巨大な自己自身である。自己の化身ともいってもなんら、変わりないのだ。三成にとっては。
(俺はどうして遊戯蒐集家となったのだ。いや、始まりに意味などない。ただ、知らぬ遊戯蒐集家の気まぐれだった。俺は、長く生きた遊戯蒐集家の暇つぶし程度に扱われたのだ。だからなんだ、どうして、俺はひととしての生を歩めない、俺はひととして生きることはできぬのか! そうだ、俺は、たしかに、ひとあらざる者、化け物で、物の怪で、鬼と変わりない……)
三成は絶望していた。
体を支えていることすら困難に感じ、地面に完全に倒れ伏した。砂利が体中に食い込んで、痛みを訴える。しかし今、三成のなかでは痛覚よりも絶望が勝っていた。
絶望が全てを奪っていった。五感は完全に死にはじめた。ひとを愛する心、義を貫くという意志、不義を弾圧しようとする自己が擦れて摩滅する。自分のなかにゆるぎないものとして存在していたはずの義がいとも簡単に瓦解する音を聞いた。残ったのは寂然とした心の空虚だけであった。
(なぜ生きている? 俺はなぜ生きるのだ。ひとを喰むだけではないか、ひとをまるまる、消滅させてしまうだけではないか。兼続のように、ひとのためなどという名義はない。ただ、自分が死ぬために喰んでいたのだ。遊戯蒐集家は自分が死ぬためにひとを喰む。兼続のように、ひとを救うことは、できない。俺には……できない)
目を閉じる。とっくになにも見えていないと同じであった視界だったが、本当の闇になった。
蝉がじりじりと叫び声をあげる。三成には、それがどこか遠い世界の音のように思え、まったく現実味のない、からっぽなものに思えた。砂利が食い込んだ体も、麻痺してしまったせいか痛みも感じない。ただ頬を撫でる風が三成を引きとめていた。
(俺が今、生きるのはたぶん、ひとを喰まないためだ。だが、俺は、ひととは相容れることができぬ。俺はばかのように生きる。老いずに生き続ける。ひととは絶対に、ずっと、馴れ合うことができない。ひとは老いて、死ぬのだ。左近はいつか死ぬのだ。俺はひとではない、だから俺は左近と共に生きることができぬ。左近に、その流浪の旅、少しだけ同行させてくれ、とも言えないのだ。兼続は……、兼続は蒐集家だ。確かに蒐集家だ。俺の友だ。俺は兼続も大切なのだ。決して、兼続をないがしろにしているわけではないのだ。俺がひとだったならば、兼続と会うこともなかったし、友となることもなかった。どちらが悪いということではない。ただ、俺は確かに死にたいのだ。ひとを見つめ続けることも、俺のなかでは成したいことでもあるが、同時に、同じくらいその願望が俺を巣食っている)
やはり三成は笑いたい、と思った。そしてやはり、そんな気力はなかった。
(ああ、消えてしまいたい。二百年も生きてきたが、遊戯蒐集家の最期は一度たりとも聞いたことがない。いや、遊戯蒐集家なんてもの、本当に存在するのか……? もしかして、今まで俺は何人かの遊戯蒐集家に会っていたが、俺はそのことを忘れている? 遊戯蒐集家はもしや、最後には自分の存在すらを喰んでしまうとでもいうのだろうか! 俺が消えたところで、誰もが俺のことを忘れてしまうのだ! 兼続も左近も、記憶にふとした空白ができるかもしれない。しかし、俺のことなど、爪先ほどにも思い出さないのだ。ならば、消えてしまったところで、問題など……)
自分でも身震いしてしまうような恐ろしい想定に行きついたとき、三成は突然現実に引き戻された。
頭が揺れる。誰かが荒々しく走っているようだった。しかし起き上がる気力すら、三成には残っていなかった。少し落ち着いてきた頭の奥で、知らない人間に見つかったら面倒だ、と先を憂う。しかし同時に、自分の知っている人間、つまり左近や兼続であった場合も面倒だ、と思った。
(ああ、でも……。少し、左近であったらいいなどと思う俺は……、ばかだ。懲りぬ男だ、俺も)
しかし三成にはわかっていた。左近が現れるには、三成が今やってきた道を追いかける形で聞こえてこなければならない。しかし足音は確実に、三成の行く先から訪れていた。
「三成?」
よく知った声だった。兼続の声だ。
「三成? なにをしている、おい、どうした?」
兼続はあきらかに動揺していたが、必死にそれを押し隠すように三成のもとへ駆け寄り、声をかける。それから三成の肩を揺さぶり、体を起こそうと引っ張った。
「ああ、生きている。生きているからあまり揺さぶらないでくれ。今は自己嫌悪の最中だ。ほっといてくれ」
「そんなことはこんな路上でしていないで家でしろ。こんなところで倒れていると通行人に対して不義だぞ」
大袈裟にため息をついて、兼続は三成の腕を引っぱり、無理やりに立たせる。三成は廃人のように四肢を放り出し、なされるがままだった。そして、薄い笑みを浮かべる。
「ああ、やはりお前はお前だな。義とはなんだったか」
「まだそんなこと言っているのか。三成、私は少しお前がわからぬ」
「俺もわからぬ」
「まこと、ひととは不思議だな」
「ひとだと?」三成は眼光を光らせた。「俺が、ひとだと? 兼続、知らないとは言わせぬぞ。俺はひとではない、遊戯蒐集家なのだ。その俺のことをひとと言うとは、どういうつもりだ」
「ばかを言うな。忘れたわけではあるまい。三成とて、はじめは人間だったであろう。蒐集家はひとしかなれないものだ。その三成を、ひととして扱わぬ道理があるか? ないだろう」
兼続は少し、怒っているようにも見えた。三成は、兼続はもしや、自分がばかなことを言って、自暴自棄にならないようにそうしているのではないか、と考えた。兼続はむやみに怒り散らしはしない。だからこそ、自分のために怒っているのだ。三成はそう考え、少し冷静になった。
支えられていた腕が離され、ひとりで立つ。地面の感覚が、異様なほどに懐かしいと感じた。
「……帰るか」
恐る恐る、三成は口にした。振り返った兼続は、笑顔だった。
(ばかばかしい。ばかばかしいが、ないがしろにすべきことではない。俺が――ひいては遊戯蒐集家がなんのために生き、そして喰むのか。……俺の描いた未来が、どれほど恐ろしいものか。蒐集家は二度とひとに戻ることはできぬ。そうだ、よく知っている。今までにも、何度かひとに戻りたいと願ったが、むだだった。世の中には仏などおらぬのだ。誰も願いなどかなえてくれぬ。――だが、逆に、ひとは蒐集家になることが可能なのだ。俺の描いた未来で、左近が蒐集家になるという選択肢が少なからず、あったのだ。人間であったなら、どれだけ良かっただろう。と思ったはずなのに、俺は左近に蒐集家の業を背負わせてしまおうと考えたのだ! なんと、こどもなのだ! 俺は人間になれない。ならば、左近を俺と同じにしてしまえばいいなど……。俺の義はもしかして、自分で得たものではないのだろうか。もしや、兼続や左近に話を聞いて、そこで、流されるように決めてしまったものではないのか? だとしたら、それを自分の義だと得々として語っていた俺は、なんとみっともないことだろう! 俺は、誰だ。俺は、どうして生きる。俺は、俺は……俺は……俺は……、いったい、俺の義とは、なんだったのだ)
06/24