「赤口、と言ったが、期限つきの用事でもあるのか?」

 雲が際限なく現れて、日差しが弱まってきた。雲を通した光はうすぼんやりとしていて、眩しすぎずちょうどよかった。
 夏独特の白い空だ――、三成は無意識のうちに目を細める。

「いや、正確な期限はありませんよ。長くてもひと月と言ったように、気まぐれなもんです」
「……どういった、用事か尋ねてもいいか」

 なぜか、この質問をするのにひどい労力を使った。無意識のうちにためらっているらしく、胸が石を飲んだように重い。
 どうして勝手にためらったのか、すぐにはわからなかったが左近の纏う雰囲気ががらりと変わったのを肌で感じ、三成は納得した。左近はその話題になってからというものの、威圧の尾をちらつかせていたのだ。

「いや、単なる届けもんですよ。相手さんといい按配に会えないんでね、こうして待ってるんです」

 先程のように、あからさまにではないが、ずるずると引きずるように威圧感のある、冷や汗ものの雰囲気をしまっていった。

(獲物を呑みこむ蛇)

 左近が必死に威圧をしまう様子を、三成はこう称した。

「すまぬ、立ち入ったことを聞いた」
「おかまいなく。それよりも俺は、三成さんのことを聞いてみたいですな。ああ、話せる範囲でかまいませんが」
「俺の話?」

 お互いに気を遣いあって、たまに、ちょろりとじれったそうな表情を見せた。
 双方、深く立ち入りたいという思いはあるが、自身のすねを見てはたと引き返す。ということを繰り返していた。
 三成は左近の問いをどうしたものかと咀嚼していた。最初の気の迷いはやはり気の迷いで、もはや蒐集家であるだとかそんなことは爪先まで引っ込んでしまっている。それでも、弱小ではあるが「言ってしまえ!」と、投げやりな意見は根強かった。

「俺など、取るにたらぬただの男だ。おもしろいものなど、どれだけ叩いても出てこぬよ」
「今までいろんなところを歩かれたのでしょう。ええっと、近江に、山城に……」
「忘れてしまった。昔の話だ」

 あまりにそっけない自分の返事に驚く。
 三成は忘れたわけではない。最初から記憶していなかったのだ。確かにたくさんの土地を踏んだが、ひとを喰む偏執にとりつかれていたせいか、その土地の景観や名物などほとんど覚えていない。

「ええ、もったいない」
「別に、どこの土地もあまり変わらない。ひとがいて、草が生えていて、なにかが売っていて、ひとは笑い、過ごしている」
「笑って?」

 おや、と、三成は左近を見る。
 妙なところでつっかかりを覚えている左近に三成は驚いた。三成の予想では、「もっと他にもあるでしょうよ」とか「たしかにそうでしょうけど」といった、記憶の想起や同調をしてくるものだと思っていた。しかし実際は、左近は訝しげに問い返してきたのである。
 左近の表情を盗み見る。また、雑木林のなかで出会った、面のような、貼り付けた笑みを見せている。しかしそれは三成の勘違いだった。左近の表情はすでに笑顔などではなかった。どうあがいても、笑顔には見えない笑顔だった。

「なにか、気に障ったか? ああ、そろそろお暇しようか」
「いえ、そういうことでは……。なんの、『ひとが笑って過ごしている』という言葉に少し……」左近は指先で頬をかく。「ひとはちっとも笑っちゃいませんよ。見えませんか? 心が。みんな、うわべだけなんですよ」
「……意味がわからぬ。ひとは短い一生を懸命に生きるのだろう。子を成して、その子がまた子を成して。どうしてそこで笑わぬのだ。自分の子孫が永続的に繁栄してゆく。愛する者との子が、だ。幸せではないのか? なぜ、偽りの笑顔を浮かべるのだ」

 いくらか成長したとはいっても、やはり三成には他者の心情を想像することが欠けていた。日常的に、ひとの心情を想像するということは続けてはいたが、それは一対一の気心の知れたひとでなければ上手くゆかない。不特定多数の一切衆生を相手に想像することは、多勢に無勢だ。

「三成さん……、あなたはひとを美化しすぎている」
「美化だと? どこが美化だ。短い時を生きるからこそ、ひとは笑うのではないのか。感情が豊かなのだ。美化など、これっぽっちもしてはいない。それが、ひとなのだろう」
「それならば、あなたはちっとも表情を崩さない。感情の起伏はありますか?」
「当然だ」
「そう。感情が全て、正直に顔に出るとは限らないのですよ。それが、歪曲して現れることだって、あるのです」
「ならば、左近のその笑顔。その下はどういう表情をしているのだ? その感情は、出来のいい贋作だろう」

 三成のすました問いに、左近は言葉を詰まらせた。のどが空回りする、重たい音が鼓膜を揺らす。その左近の動揺の様子に、三成は確信した。

(図星だ! やったぞ、俺は左近のことを爪の垢程度には見抜いていたのだ)

 鳥や虫までもが緊張しているのか、完璧に近いほどの沈黙がそこに出現した。空気を飲む音が妙に響いた。

「……こりゃまいったね。そんな風に言われてしまうとは」
「それだけあからさまに緩急があるのだ。俺でなくとも気付くに違いない」
「どうかな」

 取り繕うことをやめた左近は、すっかりと笑顔を無くして大きく息を吐いた。
 微妙に纏う雰囲気が変わったことに三成は気付く。言葉にすることは難しいが、やわらかい小川が、静止した湖になったような、ひたひたと冷えたものを感じさせた。

「俺はこうして化けの皮を剥がされたわけですが。三成さん、あんたは?」
「俺だと?」

 言葉遣いが少し荒々しくなったように感じたが、不快感はなかった。そもそも、そうと促したのは三成だ。
 三成の返しに左近は薄笑いで頷く。
 三成は、まるですべてを見透かすとでも言いたげな光を携えた双眸に一瞬たじろぐ。(お前がひとを喰む、業深き遊戯蒐集家だということは知っているぞ)今にもそんな声が聞こえてきそうだった。慌てて自分を叱咤し、視線を畑に移した。烏が枯渇した地を啄んでいる。

(言えるわけがない。言ったところで、この男は人間だ。あと十、二十年そこらで、死ぬ)

「俺は、ただのひとだ。世捨て人みたいな、そういう男だ」

(嘘だ! 傲慢だ! 自己満足だ!)

「いや、そうは見えない。あんたには何か、俺の想像もしないものがあるように見える」
「考えすぎだ」

 できることならば、頭を抱え、喚き散らしたかった。兼続と言い争ったときのように、我を忘れて叫べればどれだけ楽になるだろうか、三成は耐える。
 左近は納得していないようだ。よほど自分の目に自信があるらしく、三成を射るように見つめる。

「別に、あんたがそう言うならかまやしないさ」

 三成は唇を噛み締めた。

(俺が、本当にただの人間であったらどんなによかったか。俺は左近が好きだ。いつまでも一緒にいられそうだ。ああ、人間に――)

 そこで三成は恐ろしい未来を目の前に描いた。
 左近を喰む自分、左近と兼続と共にひとを見守る自分。それが自分の願望なのかわからないが、確かに三成はそこに自分の姿を見たのだ。前者は不義だが、ならば後者はどうなるのか。混乱する頭ではすぐにまともな答えは出なかったが、ひとつだけははっきりしている。

(不義だ。きっと、これは、おそろしく不義に違いない。俺はなにを悩んでいる。そうだ、人間ではないことを悩んでいるのだ。それなのに、後者だと! ばかげている)

 肉が白むほど指が食い込んだ拳をほどく。爪の痕がくっきりと残っているのを眺めながら、三成は口を開く。

「……すまない。多分、お前の言うことは正しい。俺は、少し変わっているかもしれない。しかし今は言えない。今は、恐ろしい。俺がなにを口走るか……」
「……こちらこそ、すまなかったね。不思議とあんたには隠し事することに抵抗があってね、俺はこうして暴露したっていうのに、という醜い苛立ちですよ」

 左近は会って数度しかない三成に指摘されただけであっさり態度を変えた理由を語る。確かに三成はそのことに不信感はあったが、深く気にしていなかった。同時に、左近も自分に対して好感情を抱いているということがわかって、胸が少しだけ逸った。
 三成はなにも言えない自分のほうがよほど醜いはずだ、と思った。

(左近、左近! 俺をこれ以上みじめにしないでくれ。俺はお前に何も言えぬ。俺は一瞬でも、おぞましい未来を夢想してしまったのだ)









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